トび醒ますものである。それは家庭に於けるが如くその個人として又社会としての事業中に現はれたる他人の人格に対する恋愛を意味するものである。それは又人生の目的に関する永遠の疑問に現はるると同時に歓楽の際にも現はるる人格の尊敬をも意味するのである。かくの如きことを知らざる男女は到底人格的恋愛のなにものなるかを覗ふ事をすら許されざる人々である。かくの如き恋愛に浸れる人は自己の感情以外に何物をも省みるが如きことなかるべしと考ふるが如き人は真にかくの如き人を解せざる人である。人は徹頭徹尾それに由つて生活し又存在せるものに関して最も少なく語り又考へるものである。健康なる人は自からの健全なることに関して語らず、無邪気なる人は自己の無邪気に関して語らない。
然しながらその健康と無邪気とが自から其人を通じて語り、或は考へる。
人格的恋愛がその力を発揮することを許され、ラスキンが国民の真の富と呼んだ多くの健全にして充実せる幸福な人間が創造せられる時は、人生に横はる最大なる根本的矛盾の一つなる男女間の矛盾を調和せしむることが出来るであらう。其の時は又一般の期望は開展せられ様々の痛ましき矛盾は調和せられ人道《ヒューマニティー》は現社会が未だその一歩をふみ出せしに過ぎない高峰に達し初むるであらう。恋愛は早晩その失墜せる権威と名声とを回復しなければならない、何故なればそれは私が既に云つた様に人類出産の不断の連鎖に対する最大な武器である。それによつて時代は時代を追ふて肉と霊との様々なる力を継承し移殖する。その力は次第に高尚となり、美はしき平衡を現はし男性と女性とは愈々《いよいよ》堅く結び付けられるのである。
併し恋愛は既に進化して男性及び女性の諸性質を調和するに必須なる要素となつた。かくして吾人は社会問題の解決に協力する多くの男女を見るのである。然かし彼等の協力は通例単に男性及び女性の能力の機械的結合に過ぎないのである。勿論その協力は次第に組織的に赴むき男性と女性とは益々人生のあらゆる目的の完備に向て結合せんとしてゐる。結婚は恋愛の継続ならざるべからずといふ近代婦人の意志は男女間の精神的交通及びその日常生活が単に家庭生活の範囲以上のものを抱括しなければならないといふことを意味してゐるのである。それは又、男女各自が彼等の日常生活外の舞台に於ける人格の発現を愛することを意味してゐるのである。かくして男子は従来男性的の思想及び行動の様式に従つて各自にのみ任かせられ長年月の間女子が人道に貢献した新生命及び女子の深く美はしき感受性によつて創造せられたる新しき智力を浪費し来つた仕事の範囲に於て女子の勢力を奨励するであらう。
仮令へば同一事業に於てその夫の友として婦人の数が次第に増加してゆくではないか。彼等は相互に相提携し補助して彼等一人にして能ふより更らに以上の仕事を完成して行くのである。この協力が恋愛を通じて行はるると同時に新しき思想を有する男女は最早恋愛をもつて他の目的を達するの手段と見做すことは出来なくなつて来る。彼等は恋愛をもつてそれ自からを目的として努力せらるべきものと考へる様になる。何故なれば彼等は自己の恋愛をもつて最早完成せられたりと感ずることが出来ないからである。他の全ての場合に於けるが如く恋愛に於ても彼等は常により高き程度に到達せんと欲してゐるからである。
恋愛が女子の場合に於けるが如く男子にあつて全くその存在を充実せしむるものではないと男子は屡々主張するがそれは誠である。何故なれば男子は自然の要求にせまられて恋愛以外に人生の変化を求めるものである。其処に活動と創造とに対する男子の本能が絶えず新しき目的を発見するからである。然るに女子にあつてはその力が等しく内部に向ふのが自然である。
其処に女子は不変の法則によりて母としての最高なる活動の範囲を発見するのである。『男は単に愛すのみ。されど女は愛そのものなり』と詩人が云つてゐる。若し男子がこの点に於て女性的となり、女子が男性的になつたとしたなら性愛の精神的状態である対照は消滅してしまふ、女子がその男子に愛せらるゝ『女らしきこと』とはその内部に向ふ性質を指していふのであり、男子が女子に愛せらるゝ『男らしきこと』とはその外部に向ふ性質を指していふのである。若し大多数の女子が安静なる状態にて生の源泉に留ることを願はず男子と共に全ての海洋を航海せんと欲する時は性の対照はその調和を欠き忽《たちま》ち単調なるものと化し去るであらう。
女子がこれを自覚する迄は仮令へ数万の女子が男子の得意とする仕事をなし能ふとも一方に於て人生と幸福の更らに偉なる事業なる人類の創造と心霊の創造とを閑却し若くは未成に終らしむるが如きことあらば社会にとつて、それが何等の利益でもないといふことが主張されなければならない。これ等の事業を適当に完成するには、女子は男子と同等なる権力を要求するのである。而して女子がこの権利を獲得するまでは『女性主義《フェミニズム》』は尚ほなすべき仕事を有してゐる。併しながら女子が選挙権――単にその狭き政治上の意味に於てのみならず、一般の選択権といふ意味に於て――を得るに準じて彼等はそれを広き人生の舞台に向つて使用する事を学ばなければならない。彼等は女子の力が『秤《はか》るべからざる』価値の創造せらるゝ領域にありて最大なるものであることを学ばなければならない。その価値はたとへ数字に表はさるること能はずとも人道《ヒューマニティー》を改善する上に最も功力多きものである。若し自からの小児が乳母部屋に於て鞭韃せられ或は相互に相打つが如きことあらば平和会議に関して喋々するも婦人にとつてそれが何の益に立つであらう。もし婦人にして哀れむべき独身の境遇より一個の男子を救ふこと能はず、而して男子の生活に調和ある結合を齎《もた》らすこと能はずとせば徒らに倫理会議を口にするもそれが何の益にたつであらう。女性主義はゲーテの二個の格言中に極めて適当なる評言を発見する。『霜を以て自からを暖めんが為め太陽より逃れんとするは愚なり。』『智慧の第一条件は何物をも見せかくることなく、全てのものとなるにあり』と彼は云つてゐる。
心霊の価値の生ずる処に太陽はその熱をふりそゝぎ、心霊の意とせざる功利の創造せらるゝ処を霜は支配してゐる。
心霊の価値は感情の世界に発見せられなければならない。亜米利加《アメリカ》に於ける近代の革新策は多くの婦人を迷路に導いたことは誠に悲しむべきことである。彼等はかの革新策なるものが恰かもかの羽根のみ華麗にして歌ふこと能はざる亜米利加の鳥の如きものであるといふことを洞察することが出来なかつたのである。亜米利加の精神は未だ一般に楽耳を欠いてゐる。それは人生の全音と半音とを識別することが出来ないのである。亜米利加に於ける数万の婦人が団体的事業にその家庭と小児の世話を任かせ自からは各自の職業或は商売に従事してゐるのは一見如何にも社会にとつて有益であるかの如く見ゆる。然し人生を向上せしむるは実は功利の如きものに非して完全なる人間である。故に行政及び社会事業を通じてなされたる全て外部の改善は畢竟何等の功果をも残さないのである。何故なれば男子も女子も真に有益なる事業とは道徳的価値を有する範囲に於て行はれ精神的状態の進歩を計るものであるといふことを理解してゐないからである。
種々なる形式が精神状態の上に影響することは事実である。然しながら精神状態の方は更らに著しく形式の上に影響を与ふるものである。結婚、母の権利、小児の保護等に対して如何に最善の形式が現はるゝとも女子がかのシユライエルマヘルによつて与へられたる十誡を遵奉すること能はざる間は無効に終るであらう、若しその十誡にして実行されたならば人道を内部より外部に渡つて一新する事が出来るであらう。その十誡中に含まれたる意義は左の如きものである。
汝は一人の恋人より他の恋人を有すべからず、又友人に対してはかの恋人に対する場合に於けるが如く風情を弄し或は強ひて彼を喜ばさんとするが如き態度をとるべからず。
汝は汝自身に対し或は汝自身の影像又は他の影像に従つて何等の理想をも創造すべからず、汝は汝の夫が如何なるものにもせよ又如何なる性格を現はすにもせよ、只管夫のためにのみ夫を愛せよ、自然は厳粛なる復讐者なり、少女の空虚なる羅曼主義《ローマンチシズム》は成熟せる婦人の情緒の第三若しくは第四期に至る迄罰せらるべし。
汝は汝の恋愛の神聖を汚すべからず、何人にまれ利益のために自己を犠牲とするは――仮令へ母たるべき律法上の権利のためである場合に於てすら尚ほ且つ美はしき感情を失ふものなることを記憶せよ。
汝は後に破らるゝが如き結婚の約束をば決してなすべからず。
汝は自から同等の程度を以て愛を注ぐ能はざる男子に愛せられんことを願ふこと勿れ。
汝は野蛮なる現今の慣習に美はしき衣を着せその言行に於て虚偽の証明をなすべからず。
汝は教育と芸術と智識と高貴なる心とを求めざるべからず。
男女平等論を説くはまだしも、男子に比して女子の劣等なることを証拠立てんと試むる程無用なものはない。反省的生活は男子よりも女子の場合に於て遙かに強いといふことは男子の力が他の方面に発揮せらるゝと同じく必要なることである。男女の差異が自然的生活に於て欠くべからざるが如く又修養的生活に於ても最も根本的に必要なのである。実際に於て知らず/\女子は男子に男子は女子の仕事に協力してゐるのである。第三性といふが如きものは決して創造の事業に容喙《ようかい》することは出来ないであらう。女子の精神が組織的に男子の事業と理想に結び付けられ、男子の精神が又女子の事業と理想とに結び付けらるゝに従つて精神的に豊富なる状態が次第に実現せらるゝであらう。男子の事業は比較的人生の個人的方面に従属し生存努力となり分化となつて人生の進歩と革新とを促がしてゐる。これに反して女子の事業は人世の社会的方面に属し団結的粘着力を現はしてゐる。女子はビヨルンソンの云つた様に『次第に人生に入込み来つた』暖かき感情のよりよき掩護《えんご》者である。かくの如き議論はかの甲乙の差別によつて天秤の価値を上下するが如きものではない。
亜米利加主義は人生の全ての問題を極めて低級な立場から論じてゐる。而して婦人問題の如きも其の主眼とする処は自己維持にあると見做してゐる。自己維持といふことは男子にも女子にも単に権威ある人間の存在に対する初歩の外面的先要条件である。未来の社会主義がとるべき最も必要なる第一階梯は各人の最も得意とする仕事によつて自己維持の機会を万人に与ふることである。かくの如くして始めて各自の仕事はその人の幸福を増進するものとなるであらう。この理由から云つてもかくの如き仕事は社会に最大の価値を齎らすものである。而して今より更らに深き修養により、これらの事に対する吾人の洞察力が益々深くなり行く時は現今に於て社会が陸軍と海軍とを支へ行くが如く婦人を維持して行くことが社会にとつて極めて自然なることゝ見ゆる様になるであらう。何故なれば女子が新しき時代の教育者たる時は彼等は最大なる社会的職務のために尽瘁《じんすい》してゐるからである。若し新社会にしてベートウベン或はワグネルを機関師として使用するが如き事あらばそは極めて悲しむべき現象と云はなければならない。而して若し又、その社会にして多くの母を児童心霊の教育者たらしむるかはりに家庭外の仕事に従事せしむるとせばこれ又等しく精力の大なる誤用である。然るに大多数の母たる人々は徒らに風琴を掻き鳴らすことが真の音楽に対して全ての芸術が学ばれなければならないといふ事を単に証拠立つるが如き教育法を用ひてゐる。併しながらそれは女子の精力が更らに完全なる人類を教育することより他の仕事に適用せらるゝ時、よりよく利用せられるであらうといふことを証拠立てゝはゐない。かの人類教育といふ仕事に対する現今の全ての努力は単に未来の準備であり、未だ理解せられざる一般の連絡である。更らに完全なる人種とは更らに精神的なる人種である。更らに精神的なる人
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