、過去においてはなんべんか興亡を繰返し、いくつかの血腥《ちなまぐさ》い記録を持っていたからであり、また一つには、そこを弾左谿《だんざだに》と呼ぶ地名の出所でもあった。天文六年八月に、対岸の小法師岳《こぼうしだけ》に砦《とりで》を築いていた淵上《ふちがみ》武士の頭領|西東蔵人尚海《さいとうくらんどしゃうかい》が、かねてより人質酬《ひとじちむく》いが因《もと》で反目しあっていた、日貴弾左衛門珍政《へきだんざえもんちんせい》のために攻め滅ぼされ、そのとき家中の老若婦女子をはじめに、町家の者どもまで加えた千人にもおよぶ人数が、この緩斜に引きだされて斬首《ざんしゅ》にされてしまった。そして弾左衛門は、その屍《しかばね》を数段に積みかさね、地下ふかく埋めたのだった。ところが、その後明暦三年になると、この地峡に地辷《じすべ》りが起って、とうにそのときは土化してしまっている屍の層が露《む》き出しにされた。そうすると、腐朽しきった屍のなかに根を張りはじめたせいか、そこに生える草木には、異常な生長が現われてきて、やがてはその烈しい生気が、旧《ふる》い地峡の死気を貪《むさぼ》りつくしてしまったのである。そう
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