感嘆符、1−8−77]」
とこれが、折竹にひき合わされたおのぶサンの第一声。サーカスにいるだけにズケズケと言う。悪口、諧謔《かいぎゃく》、駄洒落《だじゃれ》連発のおのぶサンは一目でわかる好人物らしい大年増。十歳で、故郷の広島をでてから三十六まで、足かけ二十六、七年をサーカス暮し。
このウィンジャマー曲馬団《サーカス》の幌馬車時代から、いま、野獣檻《ミナジリー・デン》だけでも無蓋貨車《マフラット・カー》に二十台という、大サーカスになるまで、浮沈を共にした、情にもろい気さくな性格は、いまや名実ともにこの一座の大姐御《おおあねご》。といって、愛嬌はあるが、寸分も美人ではない。まあ、十人並というよりも、醜女《しこめ》のほうに分があろう。
「ほら、私だというとこんな具合で、化物|海豹《あざらし》めが温和《おとな》しくなっちまう」と、餌桶いっぱいの魚をポンポンくれているおのぶサンと、鯨狼《アー・ペラー》をひき比べてみているうちに、折竹がぷうっと失笑をした。それを見て、
「この人、気がついたね」
と、おのぶサンがガラガラッと笑うのだ。
「なんぼ、私とこの大将と恰好が似ているからって、別に、親類のオバサンが来たなんてんで、懐《なつ》いたんじゃないよ。つまり、相縁奇縁ってやつだろうね。私もこいつも、知らぬ他国を流浪《るろう》の身の上だから、言葉は通じなくても以心伝心てやつ」
「おい姐さん、以心伝心で口説いちゃいけねえよ」
と、白粉っ気はないが、道化らしい顔がのぞく。
馬を洗う音や、曲奏の大喇叭《チューバ》[#「大喇叭」は底本では「大喇叺」]の音。楡《エルム》の新芽の鮮緑がパッと天幕に照りはえ、四月の春の陽がようやく高くなろうとするころ、サーカスのその日の朝が目醒める。しかしまだ、鯨狼《アー・ペラー》をここへ売ったのが何者かということが、最後の問題として残っているのだ。それに、親方が次のように答える。
「なんでもね、二っちも三っちもいかなくなった捕鯨船の後始末とかで、こいつを売ったやつの名は、クルト・ミュンツァ、です。住所《ヒシラ》はイースト十四番街の高架線の下で」
この、鯨狼[#「鯨狼」は底本では「鯨」]の出所については折竹よりも、むしろ、このほうの専門家のケプナラ君に興味多いことだ。ところが、どうしたことかそれを聴くと、ちょっと、折竹が放心の態になった。ただ、“〔Ku:rt Mu:nzer〕《クルト・ミュンツァ》”と呟いている訳は※[#疑問符感嘆符、1−8−77] あの、未知国の所在を売るという匿名の手紙の主の、K・Mというのがクルト・ミュンツァの頭文字。
事によったら、これが導きとなってあの手紙のわけも、また、それに関連しているらしいルチアノ一派の策動の意味も──すべてが明白になるのではないか。してみると、この奇獣|鯨狼《アー・ペラー》も全然無関係ではない。いや、無関係どころか極地に春がきて、ながい闇が破れるようにすべてを分らせる──と、折竹はそんなように考えてきた。
金鉱、ダイヤモンド鉱それとも石油か※[#疑問符感嘆符、1−8−77] いま、ルチアノ一味が全能力をあげて、それに打衝《ぶつか》ろうという意気が仄《ほの》みえるだけに、……秘密の、深い深い底をのぞき知ろうとする、彼はいま完全に好奇心の俘虜。
「折竹さん、海獣《けもの》とばかり交際《つきあ》ってて、あたしを忘れちゃ駄目だよ。一度、ぜひ伺わせて貰うからね」
「来給えな」と言ったのも、上の空。おのぶの言葉も瞬後に忘れてしまったほど、心は、クルト・ミュンツァが住む高架線《エル・トラック》の下へ。
その後、彼とケプナラがイースト・サイドへ出掛けていった。
そこは、二十七か国語が話されるという、人種の坩堝《るつぼ》。極貧、小犯罪、失業者の巣。いかに、救世軍声を嗄《か》らせどイースト・リヴァの澄まぬかぎり、ここの|どん詰り《デッド・エンド》は救われそうもないのだ。
「ここが、二〇九番地だから、この奥だろう」
と、皮屋と剃刀《かみそり》屋のあいだの階段をのぼり、突き当りのボロ蜂窩《アパート》へはいってゆく。
廊下は、壁に漆喰《しっくい》が落ちて割板だけの隙から、糸のような灯が廊下にこぼれている。年中、高架線の轟音と栄養不足で痛められている、裸足《はだし》の子供たちがガヤつく左右の室々。やっと、さぐり当てたクルト・ミュンツァの部屋を、折竹がかるく|叩き《ノック》をした。
「入れ。誰だ、マッデンかい」
あけると、意外な男二人にオヤッと目をみはる。どこか悪いらしく寝台にねているミュンツァは、三十|恰好《かっこう》の上品な面立ちの男だ。折竹が、来意を告げると踊りあがるような悦び。あのK・Mとは、やはりこのミュンツァ。
「ああ、来てくだすったですね。いろいろ、ご都合もあろうし、駈け違ったことと思っていましたが」
と、やがてあの不思議な手紙を折竹に出したについての、極洋に横たわるという知られない国の話をしはじめた。
「折竹さん、あなたは五年ほどまえ北極探検用として、潜水客船《ウィンターワッサー・ファールツォイク》というのを考案したミュンツァ博士をご存知ですか」
「知っています。じゃ、おなじミュンツァとなると、あなたは?」
「あの、アドルフ・ミュンツァは僕の父です」とクルトは[#「とクルトは」は底本では「クルトは」]感慨ぶかげに言うのだ。
「父は、ご存知のとおりの造船工学家でしたが、極地の大氷原を氷甲板《アイスデッケ》として、そこに新ドイツ領をつくろうという、夢想に燃えていたのです。新極北島──と、父は氷原上の都市をこう呼んでいましたよ。ところが、まもなく一隻を自費でつくりあげ、一九三三年には極洋へむかいました。僕は、体質上潜行に適しないので、捕鯨船の古物である一|帆船《パーク》にのって『ネモ号』というその潜船に蹤《つ》いていったのです。すると、運の悪いことには半月あまりの暴風雨。無電はこわれ散々な目に逢ったのち、『ネモ号』を見失って漂流一月あまり。やっとグリーンランド東北岸の“Koldewey《コールドウェー》”島の峡湾《フィヨルド》に流れついて、通りがかりの船を待っていました」
「その間、ネモ号は」と、ケプナラ君がロイド眼鏡をひからせる。
「なにしろ、無電が壊れているんで、サッパリ消息が分りません。すると、そこへ運よく一隻の捕鯨船が通りかかって、僕は無電の修理材料をもらいました。修理が成った、と、それから三日ばかり経った夜、偶然、ネモ号の通信をとらえたのです。ご想像ください。まるで、蒼白いランプのような真夜中の太陽のしたで父の通信と分ったときの、私の悦び。しかしでした」
「では、その通信にはなんとありましたね」
「奇怪なことです。僕は、父が気違いになったとしか思えなかった。どうです、たとえば貴方がたがこういう無電をうけたとしたら……」と、クルトの目が、じっとすわって、当時の回想が胸迫ったような面持。それは、たぶんお読みになる皆さんもアッと言うだろうほどの、つぎの奇怪極まるものであった。
[#ここから太いゴシック体]
──いま、われらは「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」に近し。ついにグリーンランド内地に新領土を発見す。
[#ここで太いゴシック体終わり]
およそ、世に分らないということにも、これほどのものはあるまい。冒頭でもいったように国際法の規定では、沿岸を占めれば奥地も領土となる。いま、グリーンランドで新領土の余地などというものは、誰がみても皆目ないはずなのに……。では、そのミュンツァ博士の通信は、戯《たわむ》れか狂気沙汰か※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
「僕は、その意味がいまだに分りません。もっと、上等な頭で考えたら分るのかもしれないが、僕にはどうも投げ出すより仕様がない。で、その無電はそれで切れました。あとは、待てど暮せど、なんの音沙汰もない。仕方なく、僕は父をあきらめて、その峡湾《フィヨルド》を出ていったのです」
「なるほど、お父さんのミュンツァ博士は、死を確認されている」
と、折竹が沈んだ顔をして、呟いた。
しかしその時、彼の胸をサッとかすめた一抹の疑問。ことによったら、博士は「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」の不思議な手に、狂人となっていたのではないか。死体が、橇を駆るように招かれてゆく途中、あの奇怪な無電をうったのではないか※[#疑問符感嘆符、1−8−77] しかし、その考えはその場かぎり消え、彼は、別のことを訊きだした。
「時に、クルト君は僕以外のものに、この話をしたことはないかね」
「あります、ただ一人だけです。それは、一昨年父をさがしに、グリーンランドへ行ったのです。その時、あの奇獣の鯨狼《アー・ペラー》をつかまえた。だが、その探検も結局空しくおわり、僕は全財産を摺《す》り結核にまでなって、とうとうこのイースト・サイドへ落ちこんだ。では、なぜ本国へ行かぬかと仰言《おっしゃ》るのですね※[#疑問符感嘆符、1−8−77] それは、あのユダヤ人排斥でとんだ飛ばっちりをうけたからです。
当時、本国は鼎《かなえ》の湧くような騒ぎ。密告が密告につぎユダヤ人ならぬ僕までが、本国に帰れないことになりました。そうした、困窮のなかを父と面識のある、タマニー区検事長のロングウェル氏に救われました。僕が、こんな汚ないところでも死なないでいるのは、ロングウェルさんのお蔭といっても、いい。むろん、このことは一仍《いちぶ》始終話したのです」
そのロングウェル氏は、ニューヨーク暗黒街にとれば仇敵のような人物。清廉《せいれん》、誘惑をしりぞけ圧迫を物ともせず、ギャング掃蕩《そうとう》のためには身命さえも賭そうという、次期州知事の候補者の一人だ。そうなると、ルチアノ一味とは反対の立場にある、ロングウェル氏が知るというのではなんの意味もなさない。なぜ、ルチアノ一派がそれを知っているらしいのか、折竹がそのことを訊いた。
「クルト君、君はルチアノの連中と関りあったことはないかね」
「ルチアノ※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」とクルトは驚いたような顔をして、
「僕が、なんで汚《けが》らわしいあの連中を、知るもんですか。驚いた。それは、どういう訳ですね」
ルチアノと、知らない! ますます、折竹は分らなくなっていくばかり。まったく、これはクルトが嘘を言っているか……、それとも、隠し事でもしてない以上、腑《ふ》に落ちないことだ。と、彼はいきなり語気をつよめ、
「君はまだ、僕に隠していることがあるね。もし、金にしようというのなら、幾らでも出させるが……」
「えっ、何のこってす※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」と、クルトはポカンとなる。
それに、嘘の分子が微塵もないということが、折竹にはハッキリと分るのだが……。しかしそれでは、ルチアノ一派がどうして知っているのか? まず彼らの大好物である富源のようなものでもない限り、またそれを、あの一味が知る機会がないかぎり……と、なおも折竹は執拗に畳みかけてゆく。
「では君が、僕に未知の国の所在を、売ろうと言ったわけは? あのお父さんの怪無電以外に、もっとこの問題を現実付けるものが、なけりゃならんね」
「それは」とクルトがぐびっと唾をのむ。ついに、ここに最終のものが現われるか。「それは、あの鯨狼《アー・ペラー》がどこにいたか。私が、あの奇獣をどこで捕まえたか」
「なに、鯨狼を捕獲した場所※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
「そうです。父のあの無電を現実付けるものが、鯨狼の捕獲位置にあるのです。それが、北緯七十四度八分。西経……」
と、言いかけたとき、怖ろしいことが起った。とつぜん、窓|硝子《ガラス》がパンと割れたと思うと、クルトの顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》にポツリと紅いものが……。彼が、ポカンと馬鹿のように口を空けていたのも瞬時、たちまち、崩れるように床へ転げ落ちてしまったのだ。
ルチアノ一味の手が肝腎なところの瀬戸際で、クルトの口を塞いでしまったのである。西経……、ああそれが分れば。
「
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