負えねえやつかということが、旦那がたに呑み込めねえかも知れねえから……」
と、ヒューリングがまず西洋|鎧《よろい》のような、|鉄葉ズボン《ティン・パンツ》という足部《そくぶ》保護具をつける。これを着けないと、いつ未訓練のやつに、がりがりっとやられるかも知れない。檻《おり》の戸をあけてそっと内部《なか》にはいると、見かけは鈍重そうな氷原の豹どもも、たちまち牙を露《む》きだし、野獣の本性をあらわしてくる。ヒューリングは、|鉄葉ズボン《ティン・パンツ》のうえをガリガリやられながら、鉄棒につかまって外側へ声をなげる。
「最初は、生魚食いのこいつらに、死魚を食わせる。ぴんぴん糸で引っぱって躍らせていると、うっかり生きてると間違えて、ガブリとやる。そうして、餌《えさ》についたら、もう占めたもんで……。まもなく、|飾り台《パデストール》のうえに、ちょこなんと乗る。撞球棒《キュー》のうえへ玉をのせたのを、鼻であしらいあしらい梯子《はしご》をのぼってゆく。それから、梯子の頂上でサッと撞球棒を投げ、見事落ちてくる玉を鼻面《はなづら》で受けとめる。
──というようになれば、いっぱしの太夫。手前も、給金があがるという嬉しい勘定になる。ところがです、あの“Gori−Nep《ゴリ・ネプ》”の野郎ときたら手端にも負えねえ」
「“Gori−Nep《ゴリ・ネプ》”って?」と折竹がちょっと口を挟《はさ》んだ。
「つまり、野郎は演芸用海豹《ネップ》仲間のゴリラですからね。マア、この|鉄葉ズボン《ティン・パンツ》の穴をみてくださいよ。たいていの海獣《けもの》なら二、三度で噛《か》み止みますが、あいつの執念ときたらそりゃ恐ろしいもんで……。ええ、その大将はすぐ参ります。じつは、野郎だけが独房生活で」
その、通称“Gori−Nep《ゴリ・ネプ》”という得体のしれぬ海獣を、まもなく折竹はしげしげとながめはじめた。身長は、やや海豹《あざらし》くらいだが体毛が少なく、まず目につくのがおそろしく大きな牙。おまけに、人をみる目も絶対なじまぬ野性。ついに折竹にも見当つかずと見えたところへ「あれかな」と、連れのケプナラを莞爾《かんじ》となって、ふり向いた。
「ケプナラ君、君はエスキモー土人がいう、“A−Pellah《アー・ペラー》”を知っているかね」
「アー・ペラー※[#疑問符感嘆符、1−8−77] いっこうに知らんが、なんだね」
「海豹《あざらし》と海象《ウォーラス》の混血児《あいのこ》だ。学名を“Orca Lupinum《オルカ・ルピヌム》”といって、じつに稀《まれ》に出る。その狂暴さ加減は学名の訳語のとおり、まさに『鯨狼』という名がぴたりと来るようなやつ。孤独で、南下すれば膃肭獣《おっとせい》群をあらす。滅多にでないから、標本もない。マア、僕らは、きょう千載に一遇の機会で、お目にかかれたというわけだ」
「ううむ、そんな珍物かね」と、温厚学究君子のケプナラ君は感じ入るばかり。果して、この奇獣は唯者《ただもの》ではなかった。やがて、折竹を導いて「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」へと引きよせてゆく、運命の無言の使者だったのだ。咆《ほ》えもせず、じっと瞳を据《す》えて人間を見わたしている、狡智《こうち》、残忍というか慄《ぞ》っとなるような光。これぞ、極洋の狼、孤独の海狼と──なんだか睨《にら》みかえしたくなる厭アな感じが、ふとこの数日来折竹に絡《まつ》わりついている、ある一つの異様な出来事を思いださせたのである。それは、両三度を通じておなじような意味の、次のような手紙が舞いこんできたのだ。
敢《あ》えて小生は、世界的探検家なる折竹氏に言う。この地上にもし、まだ誰も知らず一人も踏まぬ国ありとすれば、その所在を、ご貴殿にはお買い取りになりたき意志なきや。小生は、それほどのものを売らねばならぬほど、目下《もっか》困窮を極めおり候。
明日、午後三時より三時半までのあいだ、東《イースト》二十四番街のリクリェーション埠頭《パイアー》の出際、「老鴉《オールド・クロウ》」なる酒場にてお待ち申しおり候、目印しは、ジルベーのジンと書いてある貼紙《はりがみ》の下。
[#地から2字上げ]K・M生
未知の国|売物《うりもの》──じつに空前絶後ともいう奇怪なことである。まして、国というからには単純な未踏地ではあるまいが、まさか、そんなものがこの地上にあろうとは思われない。折竹はなんだか揶揄《からか》われるような気がして、ついに、二度三度と手紙がきても行かずにいた。
と、つぎに昨日のことだった。ふいに、男女二人の訪客があって、その名刺をみたときオヤッと思ったほど、じつにそれが意想外の人物だったのだ。
無疵《ラッキー》のルチアノ──いまタマニーに風を切るニューヨーク一の大親分。牝鶏《ニッキィ》フロー、彼の情婦で魔窟組合《プロスティチューション・シンジケート》の女王、千人の妓と二百の家でもって、年額千二百万ドルをあげるという、大変な女だ。そういう、暗黒街に鳴る鏘々《そうそう》たる連中が、いかなる用件があってか丁重きわまる物腰で、折竹の七十五番街の宿へやってきた。
世界的探検家対ギャングスター・ナンバー一《ワン》。まずこれは、一風雲必ずやなくてはなるまい。
「ご免なすって」と人相は悪いがりゅっとした服装の伊太《イタ》公、フローは、まだ若くガルボ的な顔だち。しかし、駆黴剤《くばいざい》の浸染《しみ》はかくし了《おお》せぬ素姓をいう……、いまこの暗黒街を統《す》べる大|顔役《ボス》二人が、折竹になに事を切りだすのだろう。
「じつは、高名な先生にお願いの筋がござんして。と、申しますのは余の儀でもござんせん。ここで、分りのいい先生にぐいと呑みこんで頂いて……」
「なにをだ」
「すべて、どこへ行くとか何をするとか──その辺のところは一切《いっさい》お訊きにならず、ただ手前の指図どおり親船に乗った気で、ちかく“Salem《サレム》”をでる『フラム号』という船にのって頂く」
「おいおい、俺をどこかの殴りこみに連れてゆくのか」
「マア、お聴きなすって」と、ルチアノはかるく抑え、
「で、その船は北へ北へとゆく。すると、そのどこかの氷のなかにだね。ぜひ先生のお力を拝借せにゃならねえものが、おいでを、じっと待ってるんですよ」
「では、そこは何処なんだね。また、僕の力を借りるとは、何をすることなんだ?」
「どうか、それだけはお訊きにならねえで。ただ、申しあげておくのは、けっして邪《やま》しいことじゃない。法律に触れるようなことでは絶対にないという……その点だけはご安心願いたいもんで」
折竹は、ただただ呆れたように瞬《しばたた》くだけ。ギャングども、大変なことを言ってきやがった。俺の力を、借りたいというからには探検であろうが、いま、年収八千万ドルといわれるルチアノの仕事なら、あるいはそれが途方もないものかも知れぬ。どこだろう、北へ北へといって氷のなかに出る※[#疑問符感嘆符、1−8−77] はてなと、思いめぐらすが、見当もつかない。ただ、匂ってくるのは黒暗々たる秘密のにおい。
「ねえ、先生、ご承知くださいましなね」
と、フローが間に耐えられないように、
「私たちだって、偶《たま》にゃ真面目な稼ぎの一つくらいはしますからね。先生にだって一生楽に暮せるくらいの、お礼は差しあげるつもりなんですよ。ねえ、先生ったら、うんと言って……」と、それでも黙っている折竹に焦《じ》れたのか、それともフローの本性か、じりじりっと癇癪《かんしゃく》筋。
「じゃ、私たちの仕事なんて、お気に召さないんだね」
「マア、言やね」と折竹はハッキリ言った。すると、扉のそとでコトリコトリと足音がする。いるな、ルチアノの護衛、代理殺人者《トリッガー・マン》のジップ[#「ジップ」は桃源社版では「ジッブ」]か※[#疑問符感嘆符、1−8−77] と思ったが顔色も変えない、折竹にはルチアノも弱ったらしい。
「ご免なすって。牝の蹴合鶏みたいな阿魔《あま》なんで、とんだことを言いやして。とにかく、この問題はお考え願っときましょう。いずれは、うんと言って頂かなきゃルチアノの顔が立たねえが、そんな強面《こわもて》は百万だら並べたところで、先生にゃ効目《ききめ》もありますまい。なア、俺らが来てもビクともなさらねえなんて……、フロー、お立派な方だなア」
折竹は、その間ものんびりと紫煙にまかれている。代理殺人者《トリッガー・マン》の銃口を扉のそとに控えていても、暗黒街《アンダーウォールド》の閻魔《えんま》夫婦を目のまえに見ていても、不義不正や圧迫には一分の揺ぎもしない彼には、骨というものがある。静かだ、ウエスト・エンド|通り《アヴェニュー》の雑踏が蜂のうなりのように聴えてくる都心|紐育下町《マンハッタン》のなかにも、こうした閑寂地がある。がいよいよルチアノも手がつけられなくなって、
「マア、これをご縁にちょいちょい伺ううちにゃ、先生だって情にからむだろう。なにも、|殴り込み《ラケット》ばかりが能じゃねえ。誠心誠意という、こんな手もありまさア」
「おいおい、ギャングの情にからまれるのか」
「そう仰言られちゃ、身も蓋《ふた》もねえが」
とルチアノは苦笑しながら立ちあがる。が、なんと思ったか、ちょっと目を据えて、
「時に、あっしらしくもねえ妙なことを伺いやすが……最近、先生んところへ匿名《とくめい》の手紙が来やしませんか」
「来たよ。しかし、地獄耳というか、よく知ってるね」
「ご注意しますが、絶対あんなものには係わらねえほうが、いい。ずいぶんコマゴマしたことで、無駄な殺生をしたり、ケチな強請《ゆすり》をするために大変な筋書を書く──というような奴が、ゴロゴロしていますから。そこへゆくと、あっしらのは実業《ビジネス》で……」
と、これがルチアノの帰りしなの台辞《せりふ》だった。
二人が帰ると、ギャングという初対面の怪物よりも、なにを彼らが企てつつあるのか、陰の陰の秘密のほうに心が惹《ひ》かれてゆく。
極洋──そこにルチアノ一味がなにを目指している※[#疑問符感嘆符、1−8−77] いわば変態ではあるが一財閥ともいえる、ルチアノ一派の実力で何をしようとするか※[#疑問符感嘆符、1−8−77] またそれがあの手紙の主とどんな関係にあるのだろう※[#疑問符感嘆符、1−8−77] と思うと、イースト・サイドの貧乏窟でせっかくの秘密をいだきながら、ギャングの圧迫のためうち顫《ふる》えている、一人の可憐な乙女が想像されてくる。
未知の国売物──それと、ルチアノ一味のギャングとのあいだには、見えない糸があるのではないか。
行ってみよう、彼はやっとその気になった。が「老鴉《オールド・クロウ》」というその酒場へいってみると、すでに日も過ぎたが、それらしい人影もない。見えない秘密、いや、逸してしまった秘密……とやきもきとした一夜が過ぎると、翌朝はケプナラとともにウィンジャマー曲馬団《サーカス》。いま、彼はあれこれと思いながら、奇獣「鯨狼《アー・ペラー》」のまえに立っているのだ。すると、ケプナラがウィンジャマー親方に、
「だが、よくこの鯨狼《アー・ペラー》は餌につきましたね」
「そこです。最初は、誰がやっても見向きもせんでした。ところが、相縁奇縁《あいえんきえん》というかたった一人だけ、この先生に餌を食わせる女がいる。呼びましょう。オイ、牝河馬《ファティマ》のマダムに、ここへ来るようにって」
と、やがて現われたのが意外や日本人。“Onobu−san《オノブ・サン》, the Fatima《ゼ・ファティマ》”──すなわち大女おのぶサンという、重錘揚げの芸人だ。身長五尺九寸、体重三十五貫。大一番の丸髷《まるまげ》に結って肉襦袢《タイツ》姿、それが三百ポンドもある大重錘をさしあげる、大和撫子《やまとなでしこ》ならぬ大和|鬼蓮《おにはす》だ。
狂人の無電か
「おやおや、故国《くに》の人だというから、もうちっと好い男だと思ったら……。えっ、あんたがあの、探検屋折竹※[#疑問符
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