人外魔境
遊魂境
小栗虫太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)“Ser−mik−suah《セル・ミク・シュア》”

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)興味|津々《しんしん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#疑問符感嘆符、1−8−77]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)ただ、“〔Ku:rt Mu:nzer〕《クルト・ミュンツァ》”と
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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   死体、橇を駆る※[#疑問符感嘆符、1−8−77]

 いよいよ本篇から、魔境記も大ものばかりになってくる。まず、その手初めが“Ser−mik−suah《セル・ミク・シュア》”グリーンランド中部高原の北緯七十五度あたり、氷河と峻険と猛風雪と酷寒、広茫《こうぼう》数百の氷河を擁する未踏地中のそのまた奥。そこに、字義どおりの冥路《よみじ》の国ありという、“Ser−mik−suah《セル・ミク・シュア》”は極光下の神秘だ。では一体、その「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」とはどういうところか。
 まず、誰しも思うのは伝説の地だということ。グリーンランドの内部は、八千フィートないし一万フィートの高さのわたり、大高原をなしている。そして、それを覆う千古の氷雪と、大氷河の囲繞《いにょう》。とうてい五百マイルの旅をして核心を衝くなどということは、生身《なまみ》の人間のやれることではない。だから、そこに冥路の国がある、死んだ魂があつまる死霊の国がある──とエスキモー土人が盲信を抱《いだ》くようになる。
 と、これがマアいちばん妥当なところで……たぶん皆さんもそうお考えであろうと思われる。また、「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」について多少の知識のある方は、一歩進んだものとして次のようなことも言うだろう。
 馬来《マライ》の狂狼症《アモック》をジャングルの妖とすれば、「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」の招きは氷の神秘であろう。それに打たれた土人は狂気のようになり、家族をわすれおのが生命をも顧《かえり》みず、日ごろ怖れている氷嶺の奥ふかくへと、橇《そり》をまっしぐらに走らせてゆく。まばゆい、曼珠沙華《まんじゅしゃげ》のような極光《オーロラ》の倒影。吹雪、青の光をふきだす千仭《せんじん》の氷罅《クレヴァス》。──いたるところに口を開く氷の墓の遥かへと、そのエスキモーは生きながら呑《の》まれてゆく。
 と、いうように氷の神秘と解釈する。それだけでも、「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」は興味|津々《しんしん》たるものなのに、一度折竹の口開かんか、そういう驚異さえも吹けば飛ぶ塵のように感じられる。それほど……とは何であろう※[#疑問符感嘆符、1−8−77] 曰く、想像もおよばず筆舌に尽せず……ここが真の魔境中の魔境たる所以《ゆえん》を、これからお馴染《なじみ》ふかい折竹の声で喋《しゃべ》らせよう。
「なるほど、君も『|冥路の国《セル・ミク・シュア》』について、ちっとは知っているね。だが一つだけ、君がいま言ったなかに間違いがあるよ。というのは、『|冥路の国《セル・ミク・シュア》』の招きでエスキモーが橇《そり》を走らせる。まるで、とっ憑《つ》かれたようになって、夢中でゆく。というなかに、一つだけある」
「へええ、というと何だね」
「つまり、生きた人間ではないからだ。その、橇をはしらせるエスキモーは、死んだやつなんだ」
「そうだろうよ」と、私はひとり合点をして、頷《うなず》いた。ついに、折竹も語るに落ちたか、魔境中の魔境などと偉そうなことをいうが、やはり結句は、死霊あつまるというエスキモーの迷信|譚《たん》。よしよし日ごろやっつけられる腹癒《はらい》せに今日こそ虐《いじ》めてやれと、私は意地のわるい考えをした。
「なるほど、死んだ人間が橇をはしらせる。じゃそれは、魂なんてものじゃない、本物の死体なんだね」
 と参ったかとばかりに言うと、意外なことに、
「そうだ」と折竹が平然というのである。
「死体が橇を駆《か》る。ふわふわと魂がはしらせる幻の橇なんて、そりゃ君みたいな馬鹿文士の書くことだ。あくまで、冷たくなったエスキモー人の死体。どうだ」
 私は、しばしは唖然《あぜん》たる思い。すると、折竹がくすくすッと笑いながら、懐《ふところ》から洋書のようなものを取りだした。みると「|グリーンランズの氷河界《ユーベル・グレーランズ・グレッチェルウェルト》」という標題。一八七〇年にグリーンランドの東北岸、マリー・ファルデマー岬に上陸したドイツ隊の記録だ。それを、折竹がパラパラっとめくり、太い腕とともにぐいと突きだしたページには、

 翌五月十六日、依然天候は険悪、吹雪はますます激しい。天幕《テント》内の温度零下五十二度。嚢内からはく呼吸《いき》は毛皮に凍結し、天幕《テント》のなかは一尺ばかりの雪山だ。すると突然、エスキモーの“E−Tooka−Shoo《エ・ツーカ・シュー》”が死んだような状態になった。脈は細く、ほとんど聴きとれない。体温は三十二度。まさに死温。
「死んだよ」と、私がもう一人のエスキモーの“AL−Ning−Wa《アル・ニン・ワ》”にふり向いて、
「だが、どうして急にこんな状態になったか、わからん。さっきまで、ピンシャンしてた奴が、急にこうなっちまった」
 と、その時だ。いきなり、死んだはずのエ・ツーカ・シューが、むっくと起きあがった。蘇えったか、と、支えようとする私をアル・ニン・ワは押しとどめ、
「死んでいるだよ。動いているだが、エ・ツーカ・シューは死んでいるだ」という。私が、なにを言うかと屹《き》ッとみる目差《まなざ》しを、その老エスキモーは受けつけぬように静かに、
「論より証拠というだて、ちょっと手を握ってみなせえ、脈はあるだかね。おいら、生きてる人間みてえに、暖かになったかね」
 なるほど先刻《さっき》と、彼のいうとおり少しも変っていない。死体がうごく──と、呆気《あっけ》にとられた私にアル・ニン・ワは言い続ける。
「そっとして……。旦那は、何もしねえほうが、いいだよ。エ・ツーカ・シューは、これから『|冥路の国《セル・ミク・シュア》』へ召されるところだから。死骸になってから行かされるなんて、おいらの種族はなんて手間が掛るだべえ」
 とみる間に、エ・ツーカ・シューがのっしのっしと歩きはじめた。まるで、ゼンマイ人形のような機械的な足取り。やがて天幕《テント》をまくったとき吹きこむ粉雪のために、彼の姿は瞬間にみえなくなった。それなりだ。橇犬の声がやがて外でした。岩がちぎってくるような吹雪の合間合間に、しだいに遠ざかってゆく鈴の音、犬の声。
 行ってしまった。極北の神秘「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」は実在せり! エ・ツーカ・シューは死体のまま橇を駆り、晦冥《かいめい》の吹雪をつき氷の涯《はて》へと呑まれたのだ。

[#図1、地図「グリーンランドとセル・ミク・シュア」]
 なんたる怪か──と、あきれる私の耳元へ折竹の声。それが、また意味はちがうが打《ぶ》ん殴《なぐ》るような驚き[#「驚き」は底本では「響き」]を……。
「どうだい、僕が魔境中の魔境といったのも、ハッタリじゃあるまい。それに、この探検にはひじょうな意義がある。じつは、国際法の先占《せんせん》問題にも触れている」
 と、私に固唾《かたず》をのましたその「先占」とは。例をわが国にとれば、南極問題あり。かの大和雪原領有を主張する、白瀬中尉の熱血。また近くは、フランスと争った新南群島の先占。いずれも事新しいだけに賢明な皆さんのまえで、この言葉の説明の必要はあるまいと思われる。つまりこれは、無主の地へいちばん先に踏み入ったものが、その本国政府に言って先占宣言をさせる。今後この地は自国の領土である、異議あるものは申し出い──というのが「先占」。
 では今、国際紛争を仄《ほの》めかすような先占問題がからむという、極北のその地とは一体どこのことだろう※[#疑問符感嘆符、1−8−77] 私は、深くも聴かずひとり合点をして、
「なるほど、それが『|冥路の国《セル・ミク・シュア》』探検の副産物というわけだね。じゃ、どこだ? その、新発見の北極の島ってえやつは」と言うと、折竹はいけぞんざいに手をふって、違う、と嘲けるように言う。
「島じゃない。その無主の地というのは、グリーンランドの内部《なか》だ」
 驚いた。現実を無視するにもこれほど痛快なものに、私はまだ出会ったことがない。
 全島、ヨーク岬をのぞくほかデンマーク領のグリーンランド──。よしんば内部《なか》が、「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」をふくむ広茫《こうぼう》の未踏地とはいえ、沿岸を占めれば自然奥地も領地となる──国際法には奥地主義の法則がある。それでは、先占|云々《うんぬん》の余地は完全にないではないか。無主の地はたとえ一坪たりと、いま北極圏の大島グリーンランドにはないのだ。それにもかかわらず……。
 と、いうところが「死体駆る橇《そり》」とともに、「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」探検の大眼目になっている。しかしこれは、暫《しばら》く興味上保留することにして、では、そこを先占しようとしたのは、いずれの国であろう。訊くと、折竹は紅潮さえもうかべ、
「どこって※[#疑問符感嘆符、1−8−77] それが他の国ならいう必要のないことだ。日本政府が、もしも僕の仕事を追認してくれてだね、『|冥路の国《セル・ミク・シュア》』の先占宣言をしてくれたら……」
 ここで、もはや言うべき言葉もなくなった。ドイツ人が夢想する新極北島《アイランド・アルクチス》を徒手空拳《としゅくうけん》で実現しようとした折竹の快挙談。氷冥郷《ひょうめいきょう》をあばく大探検にともなう、国際陰謀と美しい情火のもつれを……。さて、彼に代ってながながと記すことにしよう。

   大力女《ファティマ》[#ルビの「ファティマ」は底本では「ファイティマ」]おのぶサン

 全米に、かなり名の聴えたウィンジャマー曲馬団《サーカス》が、いまニューヨーク郊外のベルローズで興行している。サーカスの朝はただ料理天幕《クッキング・テント》が騒がしいだけ……。芸人も起きてこず野獣の声もない、ひっそり閑とした朝まだきの一刻がある。そのころ、水槽《すいそう》をそなえた海獣の檻《カラル》のまえで、なにやら馴育師《トレイナー》から説明を聴いているのが……、というよりも甚《はなは》だしい海獣の臭気に、鼻を覆うていたのが折竹孫七。
「これが、今度入りました新荷でがして」と、海豹《あざらし》使いのヒューリングがしきりと喋っている。なかには、海豹、海驢《あしか》、緑海豹《グリーン・シール》など十匹ほどのものが、鰭《ひれ》で打ちあいウオーウオーと咆《ほ》えながら、狭いなかを捏《こ》ねかえすような壮観だ。
「じつは、なんです。これは、さるところから纏《まと》めて手に入れまして……、さて、訓練にかかったところ、大変なやつが一匹いる。どうも見りゃ海豹《あざらし》ではない。といって、膃肭獣《おっとせい》でもない、海驢《あしか》でもない。海馬でもなし、海象《ウォーラス》でもない。さだめしこれは、新種奇獣だろうてえんで、いちばん折竹の旦那にご鑑定をねがったら、きっとあの不思議な野郎の正体が分るだろう……」
 というところへ「これはご苦労さんで」と、親方のウィンジャマーが入ってきた。ウィンジャマーは、きょう折竹の連れである自然科学博物館の、ケプナラ君とは熟知の仲である。ぺこぺこ頭をさげて折竹に礼をいってから、おいキャプテンと、ヒューリングに言った。
「こりゃね、一つお前さんに仕方|噺《ばなし》をして貰おうよ。海獣《けもの》の訓練の順序をお目にかけてからでないと、どんなにあの野郎が手端に
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