|冥路の国《セル・ミク・シュア》」争奪
ルチアノの魔手──それはいわずと分ることである。まったく、訳も分らぬことばかりが引き継いでおこる事件のなかで、なにより骨子となるミュンツァ博士の怪無電が……やっと、ヴェールを除《と》ろうとすればもうこの始末。可哀想にと、折竹も暗然と死骸をみている。
ルチアノめ「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」になにを狙っている※[#疑問符感嘆符、1−8−77] 何を何をと、ただ盲目さぐりの焦《いら》だたしいその気持は、くそっ、ゴージャンノットの結び目に逢ったかと、折竹も嗟嘆《さたん》の声をあげるばかり。という、その錯綜の謎は並べてみてさえも、皆さん、頭が痛くなるではないか。
一、クルトの父ミュンツァ博士が、グリーンランドの内地に新ドイツ領を発見したという。しかしそれは、じつにどうにも考えられぬこと……、でまずまず「冥路の国」の魅魍《みもう》のため狂人になったとしか思えぬ。
二、ところがそれに、倅《せがれ》のクルトは鯨狼《アー・ペラー》の捕獲位置から、一脈の真実性があるという。まず、その地の緯度をいい次いで経度をいおうとしたとき、飛びきたった銃弾に斃《たお》された。それは、疑う余地もないルチアノ一味の仕業。
三、では、ルチアノ一味はどこからその情報を手に入れたか。クルトは、清廉《せいれん》頑検事のロングウェル氏に話したのみと言うが、そのロングウェル氏はルチアノ一派の対敵──その辺の消息が、皆目分っていない。また、その地へルチアノ一味が食指を動かしているというについては、なにか驚くべき富源のようなものがなければならない。しかしもう、その事についても怪無電の真相も、すべてはクルトが墓場へ持っていってしまっている。
と、踏み彷徨《さまよ》うような当て途もない気持のなかで、なんだか折竹は魔境の呼び声をうけてくる。謎を解く、それもクルトへの弔い合戦か。と、腰を抜かしたようなケプナラを促がしながら、やっと彼は死人のそばから腰をあげたのだ。
その数日後、彼はロングウェル氏に逢った。しかし、加害者の見当についても直接証拠のないかぎり、ここの、州刑法ではどうにもならない。ただ、クルトの死を無駄にさせたくない──この点では完全な一致をみたのだ。
ルチアノ一味を、向うにまわして「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」を踏破する。怪無電の謎を解き魔境征服という以外にも、不義の徒に対する烈々たる敵愾心《てきがいしん》。まず、彼らの策動を空に終らせることが、この際クルトへのなによりの手向《たむ》けだろう。と、いよいよ「冥路の国」探検ということになった。
がその間、彼はおのぶサンの来訪を頻繁にうけていた。
「ちょいと、あたし……また来たわよ」といった具合で、まい日のようにやって来る。折竹も、三度に一度はうるさそうな顔をするが、こういう時も、
「お邪魔はしないわよ。あたしに関《かま》わず、お仕事をやって」と言う。そして何時までも、折竹の向う側にかけていて、雑誌などを見ながらもちょいちょいと彼をみる、その目付きは唯事《ただごと》ではない。折竹も、このごろでは慄《ぞ》っとなっている。
また来たわよ、ご迷惑ねえ──と、言われるときのあの気持といったら、悪女、醜女《しこめ》も典型的なおのぶサン。三十六貫の深情かと思うと、胃のなかのものがゲエッと出てくるような感じ。
それに、ここになお一層悪いことは、今度おのぶサンも探検隊について「冥路の国」へゆくということになっている。それは、鯨狼《アー・ペラー》の給仕者という役。ではなぜ、鯨狼が探検に必要なのだろう※[#疑問符感嘆符、1−8−77] というのは、棲息地の記憶だ。これは、あらゆる海獣を通じての顕著な習性で、どこで鯨狼が捕えられたかということを、観察しつつ知ろうというのだ。
してみると、おのぶサンとは当分離れられぬわけ。それを思うと、ゲンナリしてしまう。
だが、折竹は神様ではない。もし神様ならばこう頻繁におのぶサンがくる理由《わけ》を覚らなければならない。なにか、おのぶサンには惚れた腫れた以外に、折竹に言いたいことがあるらしい。で、これは、ニューヨークを去る出発の前夜のこと。
その晩、昨日は来ないからやって来るなと思っていると、案の定、扉を叩く音がする。彼は、それを聞くとぞくっとなって来て、寝室に入りそっと息を凝らしていた。すると、
「折竹さん、いないんですの」と声がする。帰るだろう、黙っていりゃ行ってしまうだろう──と、思うがなかなか去る気配がない。そのうち、扉のしたからスウッと白いものが……。封筒らしい。さては、奴め打ち開ける気持だな……と、思ったとき向うの気が変ったらしく、今度は、その封筒がスルスルっと引っ込められてゆく。
それに、折竹の全運命が掛っていようとは、神ならぬ身の知るよしもなかったのだ。
探検隊は、古くからある捕鯨港のサレムで勢揃いをし、五月十九日の朝乗船「発見《ディスカヴァリー》」号には、前檣《ぜんしょう》たかく出航旗《ブルー・ピーター》がひるがえる。いよいよ、極北の神秘「冥路の国」へ。
ニュー・ファウンドランドを過ぎラブラドルール沖にかかると、もう水の色もちがってくる。それまでの藍色がだんだんに褪《あ》せ、一日増しに伸びてゆく昼の長さとは正反対に、温度はじりじりと下ってゆく。すると、グリーンランドの西海岸をみるデヴィス海峡にかかった時、「発見《ディスカヴァリー》」号の全員がすくみ上るようなことが起った。
水平線が、とつぜんムクムクと起伏をはじめたかと思うと、みるみる、無数の流氷が「発見」号をおそってくる。船は、あちこちに転針してやっと遁《のが》れたが、じつに前門の虎去れば後門の狼のたとえか……極鯨吹きあげる潮柱のむこうに、ポツリと帆影のようなものを認めたのだ。まもなく、水夫長《ボースン》が案じ顔にやってきて、
「どうもね、あの横帆船《シップ》にゃ見覚えがあるんですがね」
「とは、どういう事だね」
「あっしゃ、あれがルチアノ一味の『フラム号』じゃねえかと思います。全部、新品の帆なんてえ船は、たんとねえんだから……」
そこで、補助機関が焚かれ、船脚が加わった。全帆、はり裂けんばかりに帆桁《ヤード》を鳴らし、躍りあがる潮煙は迷濛な海霧《ガス》ばかり。そうして、二、三海里近付いたとき双眼鏡をはずした水夫長が、
「やっぱり」と、言葉すくなに折竹をみる……その顔には言外の恐怖があった。
まるで、送り狼のような「フラム号」の出現。それに、ルチアノやフローが乗っているかどうかは知らないが……とにかく、この二探検船の前途になに事かが起るということは、もうここで贅言《ぜいげん》を費やすまでもないだろう。
自然への反抗とともに、ルチアノ一派との闘い、氷原の道には、ますます難苦が想像されてくる。
そこからは、かつての北極踏破者ピアリーが名付けたという、中部浮氷群《ミドル・アイス》の広漠たる塊氷のなか。やがて、“Kangek《カングック》”岬を過ぎ、“Upernavik《ウペルナビック》”島を右に見て、いよいよ拠点となるホルムス島付近の「|悪魔の拇指《ディヴルス・サム》」という一峡湾に上陸した。仮定「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」の位置はこの地点からみると、真東に二百五十マイルほどのあたりに当る。
この峡湾には、まるで人間への見せしめのような、破船が一つ横たわっている。ジョン・フランクリン卿の探検船「恐怖《ザ・テラー》」号の残骸が、朽ちくさった果ての肋骨のような姿をみせ、百年ばかりのあいだ海鳥の巣になっている。いずれは「冥路の国」を衝くものはこうなってしまうのだと、はや上陸早々魔境の威嚇に、一同は出会ったような気になった。まったく、そこはなんという陰気なところか。
海霧《ガス》たち罩《こ》める、海面を飛びかよう[#「飛びかよう」は底本では「飛びかうよう」]海鴎《シーガル》や|アビ鳥《ルーシ》。プランクトンの豊富な錫色の海をゆく、砕氷や氷山の涯しない行列。なんと、幽冥界の荒涼たるよ──とさけんだ、バイロンのあの言葉が思いだされてくる。しかしそこで、攻撃準備は着々と進められ、北部 Etah《エター》 地方のエスキモー人があつめられてきた。そうなると、問題なのはフラム号の行方。
「いるぞ。暫く見えないから断念《あきら》めたと思ったら、『フラム』号のやつ“Kuk《クク》”島にいやがる。どのみち、チャンバラが始まるなら、早いほうがいいな」
「フラム」号の、決着を見届けるため沿岸をさぐっていた一隊が、帰ってくればこんな話だった。クク島とは、ここから約二十マイルばかりのところ。さだめし、向うも上陸隊がでて、この隊と競うだろう。風雲も死闘もそのうえの事と、いよいよ二十台の犬橇《いぬぞり》が氷原を走りはじめたのである。
鯨狼《アー・ペラー》の檻、その餌となる氷漬の魚の箱。ダブダブ揺ぐようなおのぶサンの肥躯《ひく》も、今はエスキモーさながらに毛皮にくるまっている。
氷原と吹雪、氷河と峻嶮《しゅんけん》の登攀《とうはん》。奈翁のアルプス越えもかくやと思われるような、荷を吊りあげ、またおのぶサンを引きあげる一本ロープの曲芸。そのうち、落伍者が続出する有様。残ったのは、かなり名の知れた氷河研究者のザンベック、それに、ケプナラが気丈にも残っているが、もう、白人はこの二人だけにすぎない。しかも、寒気はますます厳しく、零下四十五度から六十度辺を上下している。
とこれは、七月末ごろのことだった。もう「|悪魔の拇指《ディヴルス・サム》」から百マイルも来たと思うあたりの、一|隘路《あいろ》のなかで大吹雪におそわれた。
天地晦冥となり、砂を吹きつけるよう。くるくる中天に舞う濃淡の波に、前方の連嶺が見え隠れしていたのも、暫し。やがて、一面が幕のようになり、咽喉《のど》の奥までじいんと知覚が失せてくる。みると、橇犬どもは悄然《しょうぜん》と身をすくめ、寒さに嗅覚がにぶったのか、進もうとはしない。刃の風とまっ暗な雪のなかで、一同は立往生してしまった。
と、やがて霽《は》れ間が見えてきた。すると、ケプナラがあっと叫んで、白みかけてきた前方を指差すのである。
「アッ、なんだありゃ。ルチアノ一味の襲撃じゃないか」
みると、そこを横切ってゆく数台の橇《そり》がみえる。来た、来た。乾魚や海象の肉をつめた箱を小楯に、一同は銃をかまえ円形をつくったのである。と、どうした訳かそれをみた、おのぶサンがゲラゲラっと笑いだすのだ。
極光下の新日本
「冗談じゃない。ここで、この隊を殺《や》っちまったら元も子もないじゃないか。ねえ、『|冥路の国《セル・ミク・シュア》』まで橇跡に蹤《つ》いていって、そこでというなら話になるがね。だけど私や『フラム』号の連中はすこしも恐かアないよ。恐いのは……」
と言いかけたが吹きつのる風のために、惜しいかな、続くものが聴えない。しかしこれは、あとで分ったことだが、蜃気楼《しんきろう》だったのである。「冥路の国」へとゆく、一人のエスキモーの橇。それが、一つの山が数個の幻嶽をだすように、いくつもの幻景《イマージュ》となって現われた。そういう、座興のあとで吹雪が霽れると、今までいた犬が一匹もみえない。
「オヤ、どうした※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」と、思っていると彼処此処《あちこち》の雪のなかから黒い鼻先がひょくりひょくりと現われてくる。犬は、こういう酷寒の地では雪中にもぐって、眠る──と、いうことが重大な使嗾《しそう》となった。その夜、これまで解けなかった「冥路の国」の怪が、彼にやっと分ったような気がしたのだ。
「よくマア俺も、此処までやってきたものだ」
と、折竹が感じ入ったように、呟くのも道理。
まず、無名の雪嶺を名づけた、P1峰を越えたのが始め、火箭《ひや》のように、細片の降りそそぐ氷河口の危難。峰は三十六、七、氷河は無数。まったく、この三月間の艱苦《かんく》は名状し難いものだった。しかし、ここで不思議に思われることは、この極地にくるとお
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