は、賭博場《キヤジノ》などでやるものではなく、もちろんその婦人なども知っているものであった。とたんに、どこからともなく笑いが始まって、娘っ子がやるようなことで五十万ミルが争われるなんて、こりゃ千年に一度もないようなことだ。と、がやがやそんな声が聴えてくるなかで、その女性が小切手を書いた。ナショナル・シティ銀行リオ・デ・ジャネイロ支店。してみると、この婦人は米人であろう。そして署名が、ロイス・ウェンライト。
 と、その時――その署名をちらっと見たカムポスが、まるで一時にあらゆる思念が飛びさったような顔で、ぽかんと放心の態になったのだ。なんの衝撃《ショック》か?![#「?!」は一文字、第3水準1−8−77、224−13] しばらく窓際《まどぎわ》に出て風を浴びせていたほど、カムポスには異常なものだったに違いない。
 「カムポスめ、どうしやがったんだろう。こんなようじゃ、奴め負けるかもしれないぞ」と、カムポスの様子が急に変ったのに気がつくと、なんだか勝負の結果が危ぶまれるような気に、折竹もだんだんになってきた。やがて、満座の注視を一点にあつめて、五十万ミルの「梯子《エスカーダ》」がはじまった。
 作者として、勝負の成行きを詳述するのは避けるが、ついに、カムポスの勝利動かぬという局面になった。手札が二枚、ハートの一に、ダイヤの十。これは誰しも、ダイヤの十で切ってハートの一を残す。人々は、緊張が去ってざわめきはじめ、やれやれ、気紛《きまぐ》れにもせよ五十万ミルは高価《たか》いと、ようやく、方々で扇の音が高まってきた。
 「なるほど、こいつの一番違いの、易《うらな》いは当った。五十万ミルがそもそもの始めで、これから奴は鰻《うなぎ》のぼりになるか?![#「?!」は一文字、第3水準1−8−77、225−6] 代議士になり、将軍になり、大統領になり――。まだまだラテン・アメリカにはそんな余地があるからな」
 とカムポスの背後にいてこんなことを考えていた瞬後、アッと、折竹が思わず叫ぶようなことが、カムポスの指に起ってしまった。いわゆる手拍子が好勢にゆるんだのか、子供でさえ最後にとって置くハートの一を、彼がパッと場へ投げだしてしまったのである。逆転! あれよあれよと満座が騒ぐなかで、勝負は一瞬に決してしまった。
 カムポスが負け、ロイスが勝った。
 「どうも、変だ変だと思ってたんだが、惚《ほ》れやがって?![#「?!」は一文字、第3水準1−8−77、225−13]」
 と折竹は呆れかえるような思い。いまの、カムポスの失策が明らかに故意であることは、別に、本人に問いただすまでもない。一目惚れというかなんて早いやつだと、暫《しばら》く二人を見くらべながら呻《うな》っていたのだ。しかし、その翌日すべてが明らかになった。
 約束どおり、翌日ロイスがカムポスを訪ねてきた。彼女が、五十万ミルの大勝負を引きうけたというのも、事情を聴いてみれば成程《なるほど》とうなずける。きょうは、瀟洒《しょうしゃ》な外出着であるせいか、白いロイスがいっそう純なものにみえる。
 「折竹さん、あなたは三上重四郎というお国の医学者を、ご存知《ぞんじ》でいらっしゃいますね? パタゴニア人に保護区政策《リザーヴェーション》をとれと、アルゼンチン政府と喧嘩をした……」
 「知ってますとも。去年パタゴニアで行方不明になった……」
 「いいえ、それがパタゴニアではなかったのです。それからあのう、三上が学生時代に発表した『Petrin 堆積説《ペトリン・セオリー》』も、折竹さんはご存知でございましょう」
 三上重四郎は、いわゆる二世中の錚々《そうそう》たるもの。在学中、はやくも化石素《ペトリン》堆積説なるものを発表した。
 化石素とは元来植物にあるもので、一つの種類が、絶滅に近づくと組織中にあらわれてくる。たとえば、松は枯れればそのまま腐敗するが、杉は、神代杉という埋れ木になることが出来る。いわば、これは化石になる成分で、それが現われたものは絶滅に近いというのだ。で三上は、人間の血のなかにもそういったものがある。なかには現にもう現われている種族があるといって……、アルゼンチン人の大部分である雑種児の血と、いま同国の南部、パタゴニア地方で、絶滅に瀕《ひん》しつつあるパタゴニア人の血とを比べたのだ。
 すると、アルゼンチン人にはある化石素《ペトリン》が、パタゴニア人にはない。つまり、まさに滅びようとするパタゴニア人のほうが、かえって種族的には若いということになったのだ。そこで三上は、それをアルゼンチン政府攻撃に利用して、パタゴニア人の減少は自然的な原因ではなく、冷酷なアルゼンチン政府が保護区をつくらずに、むしろ滅んでしまうのを願わしく思っているのだろう。俺は、世界の輿論《よろん》に訴えてもパタゴニア人を救うと、三上は単身パタゴニアに赴《おもむ》いたのだ。
 そこは、氷雪の沙漠、不毛の原野、陰惨な空をかける狂暴な西風、土人は、食に乏しく結核となって斃《たお》れてゆく。これでは、百の薬を投じようと到底救い得ぬ、結局保護区をもうけ氷の沙漠《さばく》から移さねば……と。
 三上の日本人の熱血と人道愛とが、ここに合衆国全土に呼びかける大運動になろうとした。その矢先、彼の姿がふいに、消えてしまったのだ。それ以来、一年にもなるが依然三上の行方は、杳《よう》として謎のように分らない、という、ロイスの話を一通り聴きおわると、折竹がやさしく上目使いをして、
 「お嬢さんは、では三上君をお愛しになってる……」
 「はあ、二人ともおなじ大学でしたし……」
 とロイスも燃えるような目になってくる。
 「そんな訳で、三上はアルゼンチン政府にたいへん憎まれておりました。それで、たぶんアルゼンチンのどこかに秘密囚となっているのだろう――と、私はそう考えて南米へまいりまして、これでも、手を尽してどんなに探しましたでしょう」
 額を支えた手で、卓子がかすかに揺れている。愛するものの不幸を訴えるように、ロイスはなおも続けた。
 「でも、結局は断念《あきら》めねばなりませんでした。随分、金を惜しまずあらゆる手段を尽しましたが、三上の行方はどうしても分らないのです。私は、半分|自棄《やけ》でリオへ来て、話に聴いたナイトクラブとはどんなところだろうと、なんだか覗《のぞ》くような気持で『恋鳩』へゆきました」
 「では、どうして、カムポスと一勝負という気になりましたね。貴女《あなた》に、五十万ミルぐらいの金は何でもないでしょうが」
 「それは」とロイスの顔がきゅうに火照《ほて》ってきて、「カムポスさんが、ご覧になった水棲人の話。あれを聴いて、私がなんでそのままに出来るでしょう。水棲人の胸にあった拳形《こぶしがた》の痣《あざ》と、ちょうど同じものが三上にもあるのです」とこみあげてくる激情の嵐に、ロイスはもう、吹きくだかれたよう。
 「ですから、カムポスさんは三上をみたんでしょう。あの水棲人とは、三上ですわ」
 とたんに、室内がしいんとなった。三上が、魔境「蕨の切り株」にいて、水棲人とは?![#「?!」は一文字、第3水準1−8−77、228−9] 沼土の底にいて、なおかつ生きられるとすれば、三上という男はさいしょからの化物だ。すると、そこへカムポスがううんと嘆声を発して、
 「では、ロイスさん、こっちの話をしますからね。私が、なぜあなたに対して勝とうとはしなかったか、勝てば、勝てたのをなぜ負けたかというと……、ロイス・ウェンライトという夢にも出る名の婦人が、貴女だと始めて知ったからです。
 水棲人が、私に投げてよこした葉っぱの化石みたいなものには、じつをいうと一面の文字が書かれてあった。しかし、それを私が掻《か》き寄せたために、その文字がほとんど擦《す》れてしまった。ただ、残ったのがあなたの名の、ロイス・ウェンライトというだけ……」
 「ああ、そんなことを聴くと、泣きたくなりますわ。三上は、きっとダイヤを報酬にするからこれを私に届けてくれと、あなたにお願いしたのでは……?」
 奇縁とは、じつにこうした事をいうのだろう。三上が、生きてか、それとも死んでの亡霊かはしらぬが、とにかく、愛するロイスへ通信を頼んだ。それが、この話のなかのたった一つの現実。他は、すべて怪体《けったい》にも分らなすぎることばかりだが、ロイスの身になってみれば……。
 事実、ロイスの熱情はこれなりではすまなかった。よしんば空しかろうとも「蕨の切り株」へ往ってと、熱心に一日中折竹を説いて、ついにグラン・チャコ行きを承知させてしまったのである。そうして、カムポスを加えた三人の者が、「蕨の切り株《トッコ・ダ・フェート》[#ルビは「蕨の切り株」にかかる]」へとリオ・デ・ジャネイロを発《た》っていった。

   永世変りゆく大迷路

 ジメネス教授が、「蕨の切り株」をとり巻く湿地を調査して、まるで海図みたいに足掛りの個所《かしょ》を記入した地図がある。それが、米国地理学協会にあったのが大変な助けとなって、ともかく難行ながら「蕨の切り株《トッコ・ダ・フェート》[#ルビは「蕨の切り株」にかかる]」にでたのである。それまでは、プォルモサの密林ではアメリカ豹《ジャガール》[#ルビは「アメリカ豹」にかかる]の難、草原《パンパス》へでればチャコ狼《アガラガス》[#ルビは「チャコ狼」にかかる]の大群。グァラニー印度人《インディアン》百名の人夫とともに、一行はいい加減へとへとになっていた。しかし、はじめて見る「蕨の切り株」の景観は……。
 ただ渺茫《びょうぼう》涯《はて》しもない、一枚の泥地。藻や水草を覆うている一寸ほどの水。陰惨な死の色をしたこの沼地のうえには、まばらな細茅《サベジニヨス》のなかから大蕨《フェート・ジガンデ》が、ぬっくと奇妙な拳《こぶし》をあげくらい空を撫でている。生物は、わずか数種の爬虫《はちゅう》類がいるだけで、まったく、水掻きをつけ藻をかぶって現われる、水棲人《インコラ・パルストリス》の棲所《すみか》というに適わしいのである。すると、ここへ来て五日目の夜。
 陰気な、沼蛙《ぬまがえる》の声がするだけの寂漠たる天地。天幕《テント》のそばの焚火《たきび》をはさんで、カムポスと折竹が火酒《カンニャ》をあおっている。生の細茅《サベジニヨス》にやっと火が廻ったころ、折竹がいいだした。
 「君は、ロイスさんにどんな気持でいるんだね」
 「………………」
 「そういう気配は、君がはじめてロイスさんをみた、その時から分っていたよ。惚れもしなけりゃ五十万ミルを棒に振ってまで、君がわざと負ける道理はないだろう」
 「俺はまた、大将という人はサムライだろうと思ってたがね」とカムポスがじつに意外というような顔。
 「俺は、すべてをロイスさんにうち明けにゃならん義務を背負っている。義務であるものに金を取り込むなんて、俺にゃどうしても出来ん。カムポスはつねに草原《パンパス》の風のごとあれ、心に重荷なければ放浪も楽し――と、俺は常日ごろじぶんにいい聴かしてるんだ」
 「詫《あや》まる」と折竹はサッパリと言って、
 「だが、惚れたなら惚れたで、別のことじゃないか。君が、生涯に一人だけ逢うというその女性が、ロイスさんのように、俺にゃ思えるよ」
 「くどいね、大将は」カムポスも、辟易《へきえき》してしまって、
 「いかにも俺は、あの人が好きだよ。好きで好きで、たまらんというような人だ。これだけ言ったら、大将も気が済んだろう」と、なにかを紛《まぎ》らすように笑うのである。
 しかし、事実水棲人とはまったくいるものか? また、カムポスが逢った三上の姿は亡霊か、それとも生態が変って、沼土の底でも生きられるようになったのかと、いつも四六時中往来する疑問は、その二つよりほかになかった。カムポスが、「ロイスさんの執念にもまったく恐れ入ったよ。よくまあ、五日間ぶっ続けに水面ばかり見ていられるもんだ」
 「そりゃ、君がみた三上は幽霊じゃないだろう」
 と、はじめて折竹がその問題に触れたのだ。
 「といってだよ、たとえ
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