ば、水棲人といえるものになって沼の底へはいったにしろ、もう三上は到底《とうてい》生きちゃいまい」
 「ええ、何のこった?![#「?!」は一文字、第3水準1−8−77、231−10]」とカムポスは煙にまかれたように、
 「君はよく、水棲人というと笑ったじゃないか。人間の三上がどうして沼の底へ入りそして生きられるか――君に、それが分ったのかね」
 「分ったかもしらん。あれは、君はともかくジメネスも見ている。僕は、水棲人が実在するものとして、考えている」
 その奇怪きわまる折竹の言葉が、それから十日ばかり後に実現することになった。それまでも、あるいは地震計を据《す》えて微動のようなものを計ったり、土人に、オムブのような浮く樹を運ばせては、いくつも沼地に投じ足掛りをつくっていた。目標は、カムポスが三上に会った地点――五本の大蕨《おおわらび》。なお、それに加えて千フィートあまりの、藤蔓《ふじづる》が三人分用意されている。
 「これから、僕ら三人は沼の底へ、もぐってゆく」
 と、指令をいうような沈痛な語気の折竹に、ロイスもカムポスも唖然《あぜん》となってしまった。泥亀《すっぽん》でさえ、精々十尺とはもぐれまい。それだのに、何百尺ゆけば底がみえるかもしれぬ泥のなかへ、潜水器も付けず潜ってゆけとは?![#「?!」は一文字、第3水準1−8−77、232−4] しかし、折竹といえば名だたるエキスパート。あるいはと、折竹の命にしたがった二人が危なげに浮き木をわたり、最終点の「五本の大蕨」へきた。そこで、最後の言葉を折竹がいった。
 「沼の底へゆくということは依然として変らない。二人は、いっさいなにも考えず、私のとおりにする。私が、飛びこんだ個所へ、躊躇《ちゅうちょ》せずに飛びこむ。いいか」
 そういって、折竹は大きく息を吸った。日没の、血紅の雲をうつしてまっ赤に染った沼土は、さながら腐爛《ふらん》物のごとく毒々しく美しい。と、彼のからだがスイと浮き木を離れ、ずぶりと泥にはまったかと思うと、たちまち見えなくなった。二人は、相次いで飛びこんだ。すると、泥のために息詰まるような苦しさが、ほとんど一、二瞬間後には消え、はっと空気を感じた。おやっと、息を吸えば肺に充《み》つる嬉《うれ》しさ。
 「折竹さん、ここ、何でしょう? どこに、いらっしゃいますの?」ロイスが、あまりといえばあまりなこの不思議に、漆黒の暗《やみ》のなかで折竹に声をかけた。腐土のにおいと湿った空気。ぬるっと、触れた手には水苔《みずごけ》がついてくる。と、遠くないところから折竹が答える声。
 「ここはね、いわば地下の大密林というのでしょう。むかしは樹がしげった渓谷だったでしょうが、地辷《じすべ》りもあってすっかり埋《うも》れた。そこへ、ピルコマヨが流路を求めてきた。水が、沖積層《ちゅうせきそう》のやわらかな土に滲《し》みながら、だんだん地下の埋れ木のあいだへ道をあけていったのです。どこまで行くか、どこで終るのか、形も蟻穴のように多岐怪曲をきわめた――『蕨の切り株』の地下の大迷路《ラビリンス》です。それも、上から水がくるために、絶えず形が変ってゆく。また、沼の水面下に大穴が空いても、すぐピルコマヨが運んでくる藻のために埋まってしまうのです」
 「では、三上はここへ落ちたのでしょうね。カムポスさんに会ったときは、ここから出たのでしょうね」
 「そうですよ。しかし、生きていられることは、期待せんほうがいいでしょうね」
 と言ってから、カムポスに声をかけた。
 「君は、僕が地震計を持ちだしたら、笑ったじゃないか。だが、絶えず迷路が変ってゆくので、微動も起る。それに、あのダイヤの土が渓谷性金剛石土《カスカリヨ》なのを考えても、むかしは渓谷――といったような深い地下が思われてくる」
 そこで、懐中電燈がはじめて点された。ぐるりは、水苔《みずごけ》のついた軟かな土、ところどころに、埋れ木の幹が柱のようにみえている。三人は、それから足もとに気遣いながらじわりじわりと進んでいった。すると、紆余曲折《うよきょくせつ》しばらく往《い》ったところに右手の埋れ木にきざんだ文字と地図。あっと、ロイスが胸をおどらせてみれば……。

 ――日本人、三上重四郎なるものこの迷路に入る。アルゼンチン各所監獄を転々とした末に、政治犯四名とともに「蕨の切り株」へ連れてこられて機関銃弾で追われながら沼地へと追いやられた。四名のなかには、革命に関係した有名な女優 Emilia Vidali《エミリア・ヴィダリ》 嬢も混っていた。嬢も、おそらくここへ落ちこんだのだろう。時々、かすかに歌声のようなものを聴いたが、ついにめぐり会えなかった。それほど、この迷路は複雑多岐である。さらに、ここへ来て余は、勝利を痛感す。それは、この密林が埋れて迷路ができたのは……まだ新しく、白人侵入当初だったろう。その犠牲者が、所々に完全な屍蝋《しろう》となっている。それに反して、グァラニー土人のは一つも見当らない。つまり、白人における化石素《ペトリ》説が、ここに完全に立証されたわけだ。
 ここは、四季を通じて一定の温度を保ち、寒からず暑からず至極《しごく》凌《しの》ぎよい。食物は、盲《めし》いた蝦《えび》、藻草の類。底には、ダイヤモンドがあるが無用の大長物。さて、本日出口をさぐりさぐりやっと地上へ出たが、やはりパ、ア両軍の対峙《たいじ》は続いている。ダイヤをやって、ロイスへの伝達を頼んだが、あの男はやってくるだろうか。

 ああ三上と、しばらくロイスは咽《むせ》び泣いていた。おそらくこれが彼の絶筆であろうか。なお、地図には祈祷台《トラスコロ》とか、鉄の門《プエルタ・デ・イエロ》[#ルビは「鉄の門」にかかる]とか目印が記されてあるが、おそらく、当時と今とは道がちがっているだろう。しかしこれで、水棲人の謎が解けたのだ。
 ジメネス教授がみた女の姿は、たぶんエミリア・ヴィダリ嬢だろうし、また沼地から現われた化石|屍蝋《しろう》をみて、水棲人|覗《のぞ》くと早合点したのだろう。そこからは、道あるいは広くあるいは狭まり、くねくね曲りくねりながら、下降してゆくようである。すると、眼界がとつぜん開け、かすかに光苔《ひかりごけ》のかがやく、窪みのようなところへ出た。
 四辺《あたり》は、かつて地上の大森林だった亭々たる幹の列。あるいは、岩石ともみえる瘤木《りゅうぼく》のようなものの突出。ちょっと、この奇観に呆然《ぼうぜん》たる所へ、ロイスのけたたましい叫び声……。
 「アッ、あすこに誰かいますわ」
 すると、はるか向うの光苔の微光のなかに、一人の、葉か衣か分らぬボロボロのものを身につけた、瘠《や》せこけた男が横たわっている。声を聴いたか……手をあげたが、衰弱のため動けない。三上と、ロイスはぽろりと双眼鏡を取り落した。
 しかし、ここに何とも意地の悪いことには、ちょうど此処《ここ》までが綱の限度であった。ずぶずぶもぐる泥の窪みをゆくことは、僥倖《ぎょうこう》を期待せぬかぎり、到底できることではない。みすみす眼前にみてとロイスの切なさ。そこへ、カムポスが敢然と言ったのである。
 「俺がいってみる。このままで、帰れるもんじゃないよ」
 そうして彼は、感謝の涙にあふれたロイスの目に送られながら、綱をといて窪みに降りていったのだ。無法、神に通ず――とは、カムポスの憲法《モットー》。今度も、三上を抱えてようやく戻ってきたのだが……、差しあげて、折竹に渡したとき足場を取りちがえ、ずぶっと深みへ落ちこんでしまった。とたんに、その震動で亀裂がおこり、泥水が流れ入ってくる。
 「あッ、カムポス」と、思ったときは胸までも漬《つか》っている。カムポスは、一度は血の気のひいたまっ蒼な顔になったが、やがて、観念したらしくにこっと折竹に笑《え》み、
 「駄目だ。俺は、もう駄目だから、君らは帰ってくれ。ホラ、みろ、上の土がだんだん崩れてくるじゃないか」
 「カムポスさん、私のことから、なんてすまないことに」
 とだんだん浸ってゆくカムポスに絶望を覚えるほど、いっそうロイスは切なく、絶え入るように泣きはじめた。
 「じゃ、カムポス」と、折竹がおろおろ声で言うと、彼は、
 「一番違い――動物富籖《ビツショ》のあれがやはりこれだったよ」
 それからロイスに向い、「御機嫌よう《ボーア》[#ルビは「御機嫌よう」にかかる]、気を付けてね《ヴイアジェン》[#ルビは「気を付けてね」にかかる]」と言った。
 それから、身を切られる思いで帰路についていた二人の耳へ、カムポスが高らかにいう声が聴えてきた。「シラノ・ド・ベルジュラック」の一節を朗誦《ろうしょう》している。シラノが、末期にうち明けなかった恋を告白しているところ……。
 「面白くもない私の生涯に、過ぎゆく女性の衣摺《きぬず》れの音を聴いたのも、まったくあなたのお蔭」
 ああと、ロイスが何事かをさとり、抱いていた三上の感触がスウッと飛び去ったような気がした。カムポスが私に恋し、私のために死んでくれた……。朗誦の声は、なおも続く。
 「哲学者たり、理学者たり、詩人、剣客、音楽家、また、天界の旅行者たり。恋愛の殉教者――カムポス・モンテシノスここに眠る」
 そして、声が杜絶《とだ》えた。



底本:「人外魔境」角川文庫、角川書店
   1978(昭和53)年6月10日発行
入力:笠原正純
校正:大西敦子
2000年9月15日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全5ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング