それから、そこを出ると三つの川になり、「暗秘《リオ・ミステリーゾ》河、「迷錯《リオ・コンリーゾ》」河と成程というような名の川二つ。そしてその南にピルコマヨの本流がのたくり出ている。つまり、Ramos Gimenez《ラモス・ジメネス》教授を主班とするその探検隊の目的は、以上三つの流系をしらべ、あわよくば、グラン・チャコの謎といわれる「蕨の切り株《トッコ・ダ・フェート》[#ルビは「蕨の切り株」にかかる]」を衝《つ》こうとするものであった。
 ところが、その探検が難渋《なんじゅう》をきわめ、やっと一年後に「蕨の切り株」の南隅に立つことができた。そのとき、じつに世界の耳目《じもく》をふるい戦かせたほどの、怪異な出来事が起ったのだ。
 そこは一面、細茅《サベジニヨス》、といっても腕ほどもあるのが疎生《そせい》していて、ところどころに大蕨《フェート・ジガンデ》がぬっと拳をあげている。そして、下は腐敗と醗酵《はっこう》のどろどろの沼土。すると、ジメネス教授が立っているところから百メートルばかり向うに、髪をながく垂らした女のようなものが、水の中からぬっくと立ちあがったのである。教授は驚いた。――よく見ればいかにも女だ。しかし、すぐ浴《ゆあ》みをするように跼《かが》んだかと思うと、その姿が水中に消えてしまったのだ。
 女だ。あくまで人間であって外の生き物ではない。しかし泥中で生き水底で呼吸《いき》のできる、人間というのがあるべき訳はない。と、半ば信じ半ば疑いながら、まったくその一日は夢のように送ってしまったのだ。すると翌日、顔をまっ蒼《さお》にした二人の隊員が、教授の天幕《テント》へバタバタと駆けこんできた。
 聴くと、「蕨の切り株《トッコ・ダ・フェート》[#ルビは「蕨の切り株」にかかる]」へいって蝦《えび》類を採集していると、ふいに泥のなかへ男の顔が現われた。それは、まるで日本の能面にあるような顔で……びっくり仰天した私たちの様をみるや、たちまち泥をみだして水底に没してしまったというのだ。これでいよいよ、水棲人の存在が確認された。教授はそれに、沼底棲息人《インコラ・パルストリス》と学名さえつけたのだが、あまりに、想像を絶するような途方もないことなので、かえって世界の学会から笑殺されてしまったのである。
 こうして「蕨の切り株」はちらっと戸端口《とばぐち》をのぞかせたまま、むしろ妖相を増し再び謎となったのである。ところがここに、世にも可怪《おか》しな話といえば必ず選ばれるような、水棲人《インコラ・パルストリス》を三度目に見たものが現われた。それが、余人ではないカムポス。
 「俺は去年、パラグァイ軍の志願中尉をやっていた。まったくあの国は、学歴さえあれば造作なく士官になれる。で俺は、一通り号令をおぼえたころ、任地に送られた。これが、『蕨の切り株』に大分近くなっている、ピルコマヨ堡塁線《フォルチネス》中の“La Madrid《ラ・マドリッド》”というところだ。俺は、そこへゆくとすぐ上官に献策をした。先占《せんせん》をしなさい、全隊が銃を捨てて探検隊となり、『蕨の切り株』に踏みいって、パラグァイ旗を立てれば――と言ったら、俺はひどく怒られた。理屈はどうでも、銃を捨てて――なんてえ言葉は非常に悪いらしいのだ。俺は、そんな訳で業腹《ごうはら》あげくに、ようし、じゃ俺が一人で行って先占をしてやると、実にいま考えると慄《ぞ》っとするような話だが、腹立ちまぎれにポンと飛び出したのだ。
 ところで、至誠|神《かみ》に通ずなんてえ言葉は、ありゃ嘘だ。俺は、無法神に通ずといいたいね。ジメネスが、一年も費《かか》ってやっとゆけた道を、俺は、ズブズブ沼土を踏みながら十日で往ってしまったよ。つまり、泥沼があれば偶然に避けている、危険個所と危険個所のあいだを千番のかね合いで縫ってゆく――僥倖《ぎょうこう》の線を俺は往けたわけなんだ。
 で、『蕨の切り株』をはじめて見た日に、じつに意外なものに俺は出会っちまったんだよ。ちょうど、俺がいるところから四、五十メートルほど先に、ザブッと水をかぶったまま立ちあがったものがある。人だ。さてはジメネスのいうのは嘘ではない。人類の、両棲類ともいう沼底棲息人《インコラ・パルストリス》――。秘境『蕨の切り株《トッコ・ダ・フェート》[#ルビは「蕨の切り株」にかかる]』とともに数百万年も没していた怪。
 それは、藻か襤褸《ぼろ》かわからぬようなものを身につけていて、見れば擬《まぎ》れもなく人間の男だ。胸に大きな拳形の痣《あざ》があって、ほかは、吾々と寸分の違いもない。と、いきなりそいつが片手をあげて、俺をめがけて投げつけたものがある。と思ったとき、もうそいつの姿が水面にはなかったのだ。俺は水棲人のやつがなにを抛ったのだろうと、大蕨《フェート・ジガ
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