人外魔境
水棲人《インコラ・パルストリス》
小栗虫太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)水棲人《インコラ・パルストリス》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)大|晦日《みそか》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「?!」は一文字、第3水準1−8−77、205−15]
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   リオの軽口師

 折竹孫七が、ブラジル焼酎《しょうちゅう》の“Pinga《ピンガ》”というのを引っさげて、私の家へ現われたのが大|晦日《みそか》の午後。さては今日こそいよいよ折竹め秘蔵のものを出すな。このブラジル焼酎《ピンガ》を飲《や》りながらアマゾン奥地の、「神にして狂う《リオ・フォルス・デ・デイオス》[#ルビは「神にして狂う」にかかる]」河の話をきっとやるだろう……と私は、しめしめとばかりに舌なめずりをしながら、彼の開口を待ったのである。
 ところが、その予想ががらっと外れ、意外や、題を聴けば「水棲人」。私も、ちょっと暫《しばら》くは聴きちがいではないかと思ったほどだ。
 「君、そのスイセイとは、水に棲《す》むという意味かね」
 「そうとも」と彼は平然と頷《うなず》く。しかし、人類にして水棲の種族とは、いかになんでもあまりに与太すぎる。こっちが真面目なだけに腹もたってくる。
 「おいおい、冗談もいい加減にしろ」と、私もしまいにはたまらなくなって、言った。「人間が、蛙や膃肭獣《おっとせい》じゃあるまいし、水に棲めるかってんだ。サアサア、早いところ本物をだしてくれ」
 すると、折竹はそれに答えるかわりに、包みをあけて外国雑誌のようなものを取りだした。Revistra Geografica Americana《レヴイストラ・ジエオグラフイカ・アメリカナ》――アルゼンチン地理学協会の雑誌だ。それを折竹がパラパラとめくって、太い腕とともにグイと突きだしたページには、なんと、“Incola palustris《インコラ・パルストリス》”沼底棲息人と明白にあるのだ。私は、折竹の爆笑を夢の間のように聴きながら、しばしは茫然たる思い。
 「ハハハハハ、魔境やさんが、驚いてちゃ話にもならんじゃないか。どれ、この坊やをおろして、本式に話すかね」
 折竹の膝には、私の子の三つになるのが目を瞠《みは》っている。ターザンのオジサンという子供の人気もの――折竹にはそういう反面もある。童顔で、いまの日本人には誰にもないような、茫乎《ぼうこ》とした大味なところがある。それに加えて、細心の思慮、縦横の才を蔵すればこそ、かの世界の魔境未踏地全踏破という、偉業の完成もできたわけだ。その第五話の「水棲人」とは?……折竹がやおら話しはじめる。
 「ところで、これは僕に偶然触れてきたことなんだ。『神にして狂う《リオ・フォルス・デ・デイオス》[#ルビは「神にして狂う」にかかる]』河攻撃の計画の疎漏《そろう》を、僕が指摘したので一年間延びた。そのあいだ、ぶらぶらリオ・デ・ジャネイロで遊んでいるうちに、偶然『水棲人《インコラ・パルストリス》』に招きよせられるような、運命に捲《ま》きこまれることになった。
 えっ、その水棲人とはどこにいるって?![#「?!」は一文字、第3水準1−8−77、205−15] まあまあ、急《せ》かせずにブラジル焼酎《ピンガ》でも飲んでだね、リオの秋の四月から聴きたまえ」
       *
 リオの、軟微風《ヴエント・モデラード》とはブラジル人の自慢――。
 棕梠《しゅろ》花のにおいと、入江の柔かな鹹風《しおかぜ》とがまじった、リオの秋をふく薫風の快よさ。で今、東海岸散歩道《パイラマール》の浮《うき》カフェーからぶらりと出た折竹が、折からの椰子《やし》の葉ずれを聴かせるその夕暮の風を浴びながら、雑踏のなかを丘通りのほうへ歩いてゆく。その通りには、「恋鳩《ポムピニヨス・エナモール》」「処女林《マツトオ・ヴイルジェン》」と、一等船客級をねらうナイトクラブがある。
 「ううい、処女林《マツトオ・ヴイルジェン》か。処女林なんてえ名は、どこにもあると見える」
 と彼は、蹣跚《まんさん》というほどではないが相当の酔心地《よいごこち》、ふらふら「恋鳩」の裏手口を過ぎようとした時に……。いきなり内部から風をきって、彼の前へずしりと投げだされたものがある。みると、一つのスーツケース。とたんに奥で、癇《かん》だかい男のどなり声がする。
 「さあさあ、出てけ出てけ。君みたいな芸なし猿《トーロ》に稼がれてちゃ、沽券《こけん》に係わるよ。さあ、出ろ!《ヴアツ・セ・エンポーラ》[#ルビは「さあ、出ろ」にかかる]」
 皆さんは、よくこうした場面《シーン》を映画でご覧になる。お払い箱というときは襟首《えりくび》をつま
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