れは、このピルコマヨという化物のような、じつに不可解|千万《せんばん》な川のために起っている。
で諸君、諸君はこの川が貫いている“Esteros de Patino《エステロス・デ・パチニョ》”すなわち『パチニョの荒湿地』なるおそろしい場所を知っているかね。いや、ブラジルには通り名がある。パチニョというよりも『蕨の切り株《トッコ・ダ・フェート》[#ルビは「蕨の切り株」にかかる]』――。俺はその名を知らんとはいわさんぞ」
パチニョの荒湿地、一名「蕨の切り株《トッコ・ダ・フェート》[#ルビは「蕨の切り株」にかかる]」――それには、また人々の中がザッとざわめき立ったほどだ。読者諸君も、蕨《わらび》の切り株とはなんて変な名だろうと、ここで大いに不審がるにちがいない。蕨といえば、太さ拇指《おやゆび》[底本では「栂指」と誤り]ほどもあれば非常な大物である。それだのに、それが樹木化して切り株となる魔所といえば、それだけ聴いても、この「蕨の切り株《トッコ・ダ・フェート》[#ルビは「蕨の切り株」にかかる]」なる地がいかなるところか分るだろう。でまず、順序としてピルコマヨ川の、化物然たる不思議な性質から触れてゆこう。
ピルコマヨには、元来正確な流路がない。土質が、やわらかな沖積層で岩石がなく、そのうえ、蛇行が甚しいために水勢もなく、絶えず溢れ絶えず移動し、いつも決まりきった川筋というものがない。まったく、きょうの川は明日はなく、明日の湿地は明後日の川と、転々変化浮気女のごとく、絶えず臥床《がしょう》をかえゆくのがピルコマヨである。そうしてその流域のなかでもいちばん怖しい場所が、「蕨の切り株《トッコ・ダ・フェート》[#ルビは「蕨の切り株」にかかる]」のパチニョの湿地になっている。
これまでこの川は、水中植物の繁茂が実におびただしいために、櫂《オール》が利かず、遡《さかのぼ》ったものがない。従って、国際法でいう先占《せんせん》の事実というやつが、パラグァイ、アルゼンチンのどっちにもない訳である。日本人が、フランス人よりも先に新南群島を占めたため、いまは日本の領有となっている。その先占を、一九三二年の夏の終りごろに、いよいよアルゼンチン政府が決行することになった。
ピルコマヨが、「蕨の切り株《トッコ・ダ・フェート》[#ルビは「蕨の切り株」にかかる]」の荒湿地でまったく消えてしまう。
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