ゥ、慌《あわ》てたように亢奮をおさめた。
「それから、『メンヤンの草漉紙《パピルス》』のほうは孔雀王経です。やはりあれは、天母人の大文化を唱ったものです。それには、一、二か所ちがったところがありまして、あに竜の森へゆくを得んや――というところがある。その竜という字が棘蛇《アディ・ナゴ》とかわっているのです」
「棘蛇《アディ・ナゴ》」とダネックがちょっと目を剥《む》いた。
「棘蛇、あの第三紀ごろにいた游蛇類ですか」
「そうです、少くともそう思われますね」と熱したダネックの目を冷ややかにみて言った。
「それで略《ほぼ》、前世紀犀《バルチテリウム》が十万年もあとの、洪積層から出た理由も分ります。要するにそこは、人獣ともに害さぬ仏典どおりの世界でしょう。それこそ、つらい現実からのがれる倔強《くっきょう》な場所です。私は……そうして理想郷を見つけました」
「では、無躾《ぶしつけ》なようですが連れのご婦人は?」と折竹がたまらなくなったように訊いた。しかし、それは、ケルミッシュが続けて言おうとするものだった。
「ケティ……そうです。あれは、じつに珍しい完全な蒙古型癡呆《モンゴロイド》です。蒙古型癡呆とは、お二人には説明も要りますまいが、遠い、遠い昔入りこんだ蒙古人の血が、ぼつりと、数万年後のいま白人種にでるのをいうのです。彼らは、蒙古人のするとおりの真似をする。胡坐《あぐら》をかく、手|掴《づか》みで食い、片手で馬を捌《さば》く。しかし、智能の程度は小学生をでぬ。とマア、こういったもんです。
でケティは、もとサーカスの支那|驢馬《ろば》乗りでした。そして白痴なもんで虐待《ぎゃくたい》をうけていた。すると、その金髪|碧眼《へきがん》に蒙古的な顔という、奇妙な対照が僕の目をひいたのです。もともと私は、白人文明の破壊性が心から厭で、東洋思想に憧れればこそ、梵語などをやりましたが……。一夕、ケティをよんで飯を食わしたことがあるのです。
その席上、偶然私がとり出した『宣賓《シュウチョウ》の草漉紙《パピルス》』をみてケティがなにやら音読のようなものを始めた。そこで私は、学校によんで録音をさせました。それから、時経てからまたケティに読ます。しかし、やはりなん度読ましても、おなじように読む」
「なるほど」ダネックが始めて相槌をうった。
「つまり、私は意味は分るが音読ができぬ。ところが、ケティは意味は分らぬが音読はできる。と、こんな工合で、はじめて『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』の言葉が完全に読めたわけです。ケティは蒙古型癡呆《モンゴロイド》というよりも、天母型癡呆《ハーモロイド》ですよ」
「すると」と折竹が口をはさんで、「きっと太古に、ヨーロッパへきた天母《ハーモ》人の一族があったのでしょう」
「そうです。その血が、なんでいまの白人種に絶無といえるでしょう。ですから、私は東洋思想に溶けこんでいるせいか、有色人|蔑視《べっし》をやる白人種を憎みます。ナチスの浄血、アングロサクソンの威――かえって彼らは、じぶんらにある創成の血を蔑《さげす》んでいる」
続いてケルミッシュは、いずれなにかの役にきっと立つと思うので、ケティを連れてきたといった。世界に一人、秘境「天母生上の雲湖」の言葉を読む白痴のケティ、その彼女を連れて魔境のなかへ消えようという……このケルミッシュの探検ほどおよそ奇怪なものはない。
折竹は、それから懸命にダネックを説いた。途中は、麗江《リーキヤン》のあたりから二万フィート級の嶺々が、約七、八百キロのあいだをぎっしりと埋めている。それに、 KoLo 《コロ》のように慓悍な夷蛮はあり、ともかく西域夷蛮地帯《シフアン・テリトリー》をゆくには経験に富んだ、ダネックのようなエキスパートを俟《ま》たねばならぬ。しかし、ついに折竹は相手を説き伏せた。名を、ダネック探検隊とするということにして、ともかく、名利心を釣り納得させたのである。よかったと、彼はホッと吐息をした。これで、いよいよ援蒋ルート遮断の日も近いと、ひそかに故国の神へ折竹は感謝した。
これには、富有なケルミッシュが全資産を注ぎこみ、いよいよ準備成った翌年の三月、蜿蜒《えんえん》の車輛をつらねる探検隊が察緬《リーミエン》をでた。そこから大理《タリ》、大理から麗江《リーキヤン》、じつにそこが西域夷蛮地帯《シフアン・テリトリー》の裾だ。北緯二十六度、V字型の谿《たに》には根樹《ガツマル》の気根、茄苳《カターン》、巨竹のあいだに夾竹桃《きょうちくとう》がのぞいている。
「おい、どうした君、歩けないかね」
ケルミッシュが、おそらく老年の豹でもあるいたらしい泥濘《でいねい》の穴に足をとられ、ぺたりと、面形を地につけ動けなくなってしまった。そこには、暖水をこのむ大|蟻《あり》が群れている。陰湿の、群葉のしたは湯気のような沙霧《ヘーズ》だ。
「さあ、足を踏んばって……、おいケティ、ケルミッシュ君に肩を貸してやれ」
「なんて、意気地がない。男ざかりが、泡《あわ》アふっくらって可笑《おか》しくなるよ。おや、なんてえ滑《すべ》っこい肌だろう」
この、疲れをしらない石人のような頑健さ。時々ケティは弱いケルミッシュの生杖《いきづえ》になっていた。
しかし、そこからは一歩一歩がたかく、それまで栴檀《せんだん》のあいだに麝香鹿《じゃこうじか》があそんでいた亜熱帯雲南が、一変して冬となる。揚子江の上流金沙江の大絶壁。じつに、雲をさく光峰《ピーク》からくらい深淵の河床にかけ、見事にも描くおそろしい直線。それが、一枚岩というか屏風《びょうぶ》岩といおうか、数千尺をきり下れる大絶壁の底を、わずかな苔経《たいけい》をさぐり腹|這《ば》いながらゆくようなところがある。そこは、鳥も峡谷のくらさにあまり飛ばないところ……。そこを、やっと抜けでて西康省に入ればいよいよ崎嶇《きく》をかさねる西域夷蛮地帯《シフアン・テリトリー》の山々。
あるいは恒雪線《スノウ・ライン》にそい、あるいはすこし下って、一万フィートあたりの石南花《しゃくなげ》帯をゆく。巨峰、鋸歯状の尾根が層雲をぬき、峡谷は濃霧にみち、電光がきらめく。そして、雹《ひょう》、石のような雨。またその間に岩陰に目をむく、土族を追えば黒豹におどされる。まったく、それは四月間の地獄のような旅だった。そうして、七月のはじめバダジャッカに着いたのである。
そこには、バダジャッカの喇嘛《らま》寺があり、人煙はそこで杜絶える。しかし、そこから「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」へかけては大高原をなしている。
その夜、断雲からもれる月が雪のうえに輝いていた。巌の輪郭をきざんだ手近の尾根をながめながら、折竹とダネックがひそかに語っている。それは、ゆうべダネックが見付けたことであるが、ケティが深夜ケルミッシュの部屋へ入ったというのだ。
「どうも、白痴がケルミッシュ君に惚れてるらしいんだ。悪女の、なんとか情とかでケルミッシュ君も、ゆうべは辟易《へきえき》していたらしかったよ。それがね、僕が寝ようとした時だった」
※[#釐の里を牛にしたもの、170−8]牛《ヤク》の乾脂の燃える音が廊下を伝わってくる。ひょいと覗《のぞ》くと、ケティが平らな顔をニタリニタリとさせながら、向うのケルミッシュの部屋のなかへ入ってゆく。ダネックは、もの好き半分、扉のすきから覗《のぞ》きこんだ。
「なに、なんの用できたね」ケルミッシュが空咳《からぜき》をした。見るとなんだか、不味《まず》いものがいっぱい詰まったような顔だ。
「なんだといって……?![#「?!」は横一列] なんだか、あたいにも訳が分らないんだよ」
と言うと、すすっと寄ってきて舌っ足らずの声で、
「先生……マア起きていたんだね。あたいを、先生は待っていてくれたんじゃないのかね」
と、ケルミッシュが辟易するさまを、ダネックが笑いながら話したのである。あんな白痴を、ただ天母《ハーモ》語が読めるだけで連れてくるもんだから、ケルミッシュ君も、えらい目に逢うんだ。だいたい、無思慮、無成算でケルミッシュ君は駄目だ。やはり、これは俺の探検だねと、ダネックが鼻高々に言うのである。しかしそれは、ただ浅いとこしか見えぬ、人間の目にすぎない。翌朝から、すべてが白痴ケティを中心に廻転してゆくようになった。
朝まだき、とつぜん銅鑼《どら》や長|喇叭《らっぱ》の音がとどろいた。みると、耳飾塔《エーゴ》や緑光|瓔珞《ようらく》をたれたチベット貴婦人、尼僧や高僧《ギクー》をしたがえて活仏《げぶつ》が到着した。生き仏さま《ミンチ・フツクツ》[#ルビは「生き仏さま」にかかる]、おう、蓮芯の賓石よ《オムマニ・バートメ》[#ルビは「おう、蓮芯の賓石よ」にかかる]、南無――と、寺中が総出のさわぎだった。探検隊がそれに相当の寄進をしたので、午後、隊のための祈願をすることになった。読経の合間合間に経輪がまわっている。むせっぽい香煙や装飾の原色。だんだんケティは眩暈《めまい》のようなものを感じてきた。すうっと、目のまえのものが遠退《とおの》いたと思うと、ケティはそれなりぐたりと倒れた。
気がつくと、瑜伽《ナル・ヨル》、秘密修験《サン・ナク》の大密画のある、うつくしい部屋に臥《ね》かされていた。黄色い絹の天蓋に、和※[#「門がまえ」に眞、171−11]《ホータン》の絨緞《じゅうたん》。一見して、活仏《げぶつ》の部屋であるのが分る。すると、西蔵《チベット》靴をかたりかたりとさせながら、活仏《いきぼとけ》の影がすうっと流れてくる。むくんだ、銅光りのする顔がちょっと覗いたが、それはやがてひれ伏した。
「生き観音《ミンチ・カンキン》[#ルビは「生き観音」にかかる]、おう、まことの観音《カンキン》とは貴女《あなた》さまじゃ。毘沙門天《ヴィシュラヴナ》の富、聖天《カネシャ》の愉楽を、おう、われに与えたまえ」
ケティには、なんでそういわれたのか、考える頭脳《あたま》はない。常人でも、それはじつに解しがたいことだ。しかし彼女は、それを機会にてんで無口になった。それまでの、のへのへと笑み妄言《もうげん》を言うケティは、もう何処かへ消えてしまったのだ。ただ、「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」を覆う密雲をのぞんでは、時々、きらっと光っては消える大氷河のかがやきに……そのときの笑みはてんで違うものになっていた。彼女は、なにかの叫び声をうけはじめたのだ。
「ケティは、何処にいるね」ダネックがちょっと意気込んだ声で折竹に訊いたが、相手の様子をみるといきなり言い紛《まぎら》わせ、「いやね、大氷河のしたのAF点の傾斜を測りたいんだ。ケルミッシュ君がいじっていた経緯計《セオドライト》はどうしたね。君、ケルミッシュ君を見かけなかったかね」
それは、やはり折竹も気付いていたことだったけれど、きゅうにケティが美しくみえてきたのだ。あるいはそれは、周囲の自然の線が微妙な作用をするのだろうか。荒茫ただ一色の雪の高原にたち……風や雷にきざまれた鋸《のこぎり》状の尾根を背にしたケティは、あの醜さを消し神々《こうごう》しいまでに照り映える。と急に、彼女をみる男の目もちがってくる。ダネックもケルミッシュも、ケティを雄のように追いはじめたのだ。
「ダネック君、君は近ごろどうかしているね」折竹が、もしケティの問題でこの探検隊が崩《くず》れるようではと、一日、ダネックをとらえて真剣に問いはじめたのだ。
「どうしたって?![#「?!」は横一列] 僕は相変わらずの僕さ」
「いや違う。まえには、もっと剛毅不屈なダネックだったね。それが、山男のくせに女の尻を追いまわす。それも白痴《ばか》のケティとは、呆れたもんだと思うよ。ケティは……やはり白痴で醜い女さ。ただ、それをみる君たちの目が、妙な工合に違ってきただけなんだ」
「そうか、僕もそういや気がついていることがあるんだ。君がケティをみる目も尋常じゃないよ
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