V母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」へわけいって源流を閉じるか、――その二者以外に遮断の方法はないと考えていた。なぜなら、水量が減れば激流となって、そこの舟行がたちまち杜絶するからである。
「くそっ、カーネギーの金庫を背負った学会がなんて醜態だ。二度や三度の、失敗で平張《へば》るなんて、外聞があるぞ。俺も、今度こそは往ってと思っていたのに……」
 ダネックがいった探検中止の報が真実とすれば、支那事変終止を早からしめる援蒋ルートの遮断も、魔境「天母生上の雲湖」征服もいっぺんに飛んでしまう。みすみす、機会を目のまえにしながら、なんて事だろう、焦《あせ》ればあせるほど眠れなくなって、その夜折竹はまんじりともしなかった。すると、それから三日後に、いよいよ探検中止確定をダネックがしらせにきた。
「これで俺も、いよいよハーヴァードの地学教室へもどるんだ。遠征五年、隊員十六名を失っただけで、なんの得るところもない。ねえ、『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』は永劫《えいごう》の不侵地かね」
 ダネックも、さすがその日はぐったりしていた。彼は、アメリカに籍はあるがチェコ人。精悍《せいかん》、不屈の闘志は面がまえにも溢れている。三十代に、加奈陀《キャナディアン》ロッキーの未踏氷河 Athabaska 《アタバスカ》をきわめて以来、十年、彼は恒雪線《スノウ・ライン》とたたかっている。雪焼けはとうに、もう地色になっていて、彼は自他ともゆるす世界的|氷河研究家《グレーシャリスト》だ。
「弔い合戦」と、のぞき込むような目でダネックが言った。それは、彼自身にとっても身を焼くような執着である。
「君も、今度は木戸のために闘うところだったね。『天母生上の雲湖』に復讐するところだったね」
「そうだ。ところで、君に言おうかどうかと迷っていたんだが……」と、とつぜん折竹が改まったように、切りだした。
「さっき、白夷《シヤン》人の召使が聴き噛《かじ》ってきたんだがね。ここへ何でも、『天母生上の雲湖』ゆきの新隊がのり込んできたというのだ」
「なに、われわれ以外の探検家とはどこの国のだ?![#「?!」は横一列]」
 みるみる、ダネックの目がすわり、額が筋ばってくる。これが、彼のいちばん不可《いけ》ないところだった。じぶんを持することあまりに高いために、すぐ人と争い猜疑心《さいぎしん》を燃やす癖がある。いまも這々《ほうほう》の体でもどったところへ新しい隊と聴き、彼はさながら身を焼くような思いだったろう。ところが、折竹が含みわらいをして、
「マアマア、話は全部聴いてからにし給え。それがね、探検隊とはいえ、じつに妙なものなんだ。触れ込みはそうでも、総員男女二人しかいない」
「なんだ?![#「?!」は横一列]」 ちょっと、ダネックの顔色が和《やわ》らいだ。案外、事実を知ったら吹きだすようなものかもしれない。彼は、バンドを揺《ゆす》って、嗤《わら》いながら立ちあがった。「そうか、其奴《そいつ》が、僕の『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』における経験を聴きたいというのだね。よろしい、今夜そのちんまりとした探検屋に逢ってやろう」
 アメリカ地理学協会「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」攻撃隊は隊員二十一名、人夫は、苗族《ミョウツエ》、※[#「けものへん」に果、161−3]※[#「けものへん」に羅、161−3]《ローロー》、モッソ各族を網羅し二百余名なのに、ここに、あらたに現われた新隊の人数総員二名とは、まずまず聴けばままごと[#「ままごと」に傍点]のような話である。ダネックと折竹は、その日の夕がた新来者の宿を訪れた。
 そこは、折竹と懇意な漢人の薬房で、元肉、当帰樹などの漢薬のくすぶったのが吊されている。店をとおって奥まった部屋へとおされた。そこには、浮腫《ふしゅ》でもあるのか睡《ねむ》たそうな目をした、五十がらみのずんぐりとした男が立っている。丁抹《デンマーク》の、クロムボルグ紀念文化大学の教授ケルミッシュといった。やはり彼も、チェコ人で梵語《ぼんご》学者である。
「ここで、国のお方にお逢いできるとは、望外な倖せです。私は、『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』登攀の希望をもって、いささか仏教文学の方面からもあの地を究《きわ》めておりますので……」
「それは」とダネックが無遠慮に遮った。
「あなたのは、つまり、教室だけの『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』でしょう。あの辺と、古代インドの交通を書いた大集月蔵という経がありますね。しかし、登行には科学的準備が要ります。もちろん、科学的鍛練、経験もものをいいます。僕は、これでも氷河とは十年も暮してますが、あの、『天母生上の雲湖』には赤児のように捻《ひね》られますぜ」
「では、私なんぞには登れぬと仰言るのですね。なるほど、私にはなんの鍛練もない。氷斧《ピッケル》を、どう使うかも知らないし、アルプスの空気も知りません。素人です。僕は、全然の無経験者です」
 それには、折竹もダネックも少なからず驚いた。冗談や粋狂でゆける「天母生上の雲湖」ではない。きっとこれは、いい加減なところまで往って引き返したうえ、「わが天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]死闘記」などと空々しいものを発表する、許しがたい売名漢ではないのか。ダネックも、さいしょは彼の競争者として警戒を怠らなかったのが、もう聴くも阿呆《あほ》らしいというような素振りになった。もちろん、そこまでのケルミッシュはいかにもそうであったろうが……。
「ですが、ダネック教授」とケルミッシュが改まったように、言った。
「私は、些《いささ》かながらあの魔境について知っております。あなたが、五か年の辛苦のすえやっと究《きわ》めたもの以上を、私は、ヨーロッパにおりながら不思議にも存じているのです。ねえ、まだ短文以外の探検記の発表はありませんね。隊員中、途中で帰国した方も一人もないと思いますが」
「ふうむ」ダネックは愚弄《ぐろう》されたように唸《うな》った。五年間、人力がつくせる最高のエネルギーを発揮して、氷河と、大烈風とひっ組んだじぶんのあの労苦を、いま舌三寸で事もなげにいうこのペテン師と、彼は怒気あふれた目で、ぐいと相手をにらみ据《す》えた。
「君が、そんな魔法使いなら羽くらいはあるだろう。どうだ、僕を『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』まで、乗せて飛んでいってくれ」
「いやいや、ただ私という男がけっして無価値なものでない――それを、ともかくお知らせしとこうと思うのです。ところで、あの外輪四山のうちの紅蓮峰《リム・ボー・チェ》の嶺ですね。あれは、東南からのぞめば角笛形をしているが、ちょっと、西へまわると隠れていた稜角《りょうかく》がでて、その形が円錐になりますね」
 これには、さすがのダネックもあっと驚いた。まだ、あの山嶺の写真は一つしか発表してない。西側からのは、実をいうと写真にもとってないのだ。それを、万里の雲煙をへだてたヨーロッパにいて知るとは、なんという化物のような男だろうか。
 ダネックが、打ちのめされたように茫然《ぼうぜん》となっているところへ、ケルミッシュのもの静かな声が続く。
「これで、ダネック教授もお分りになったことと思う。私は、今次の探検についてあなたの協力を求める。いや、ぜひお力添えを得たいと思う。それに就いて……」
 と言いかけたとき、バタンと扉があいた。西日が叢葉《むらば》のすきから流れるなかへ金髪が燃え、ひとりの、白人女がふらふらと入ってきた。
「ああ、ケティ」ケルミッシュが、ちょっと眉をしかめ立ちあがって肩を抱いた。
 見ると、金髪の色といい碧眼《へきがん》の澄みかたといい、一点、非のうちどころのないドイツ娘である。しかし、それ以外の部分はなんという変りかた?![#「?!」は横一列] 厚い唇をだらりと空けた様《さま》。
 顔はだだ広く鼻は結節をなし、ほそい目の瞼がきりっと裂けている――まさに、このほうは完全な蒙古人だ。そのうえ、一目で白痴であるのが分るのだ。
 これかと、ダネックも折竹も唖然《あぜん》と目をみはった。これが、ケルミッシュの同伴者とはますます出でて奇怪だ。癡呆《ばか》を連れてきてあの大魔境へのぼる?![#「?!」は横一列] さっきの紅蓮峰《リム・ボー・チェ》の山嶺のことでグワンとのめされた二人は、いよいよ神秘錯雑をきわめるこのケルミッシュのために、いまは、引かれるままの夢中|裡《り》の彷徨《ほうこう》だ。
 日が落ちた。巨竹の影が消え角蛙《つのかわず》が啼《な》きだした。暑さはいくぶん退いたが、二人のこの汗は。

  大氷河の胎内へ

 その夜から、ダネックの懊悩《おうのう》がひどくなった。なんの、ペテン師、売名漢と初手から見くびったケルミッシュが、さながら人間以上のおそろしい力をもっている。もしも、彼ダネックが優秀な科学者でなければ……、ケルミッシュもあの娘も魔境「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」の、ユートピアの住人がひそかにあらわれたくらいに思うだろう。
 だが、この場合|懼《おそ》れるのは登攀の成功だ。魔境の大偉力に対するダネックの科学より、むしろ神秘対神秘力でケルミッシュではないのか。辛酸五年の労苦が水泡《すいほう》に帰したところへ、あらたな力を抱《いだ》いて魔境へゆくケルミッシュをみる、ダネックの胸のなかの切なさ。ところへ、二、三日経って二度目の会見が行われた。
「きょうは、全部のことを包まずお話しようと思うのです」
 相変らず、ケルミッシュを鬱々《うつうつ》としたものが覆っている。二人は前回の影響もあり、白昼幽霊をみる思い。
「私が、なぜヨーロッパに居りながら、あの魔境のなかを知っているか。それにはじつをいうと次のような話があるのです。あなた方は、『宣賓《シュウチョウ》の草漉紙《パピルス》』『メンヤンの草漉紙』という名の漂着物をご存知ですか。一つは揚子江の流れをくだり四川省の宣賓《シュウチョウ》、一つはメーコン河をくだって仏領インドシナのメンヤンへ、それぞれ流れついたものがあったのです。
 それは、古来から何処にもないような草漉紙《パピルス》でした。そしてそれに、チベット文字のようなジャワ文字のような、とにかく、その系統にはちがいないが判読できぬという、じつに異様な文字が連っていました。たいていの学者は、それをなにかの悪戯《いたずら》のように考えたらしいですが、私は、それに執心《しゅうしん》五年、やっと読み解くことができたのです。
 宣賓《シュウチョウ》のには、紅玉《ルビー》光をはなつ峰のさまが書かれてある。それが先日、私がたしかめた紅蓮峰《リム・ボー・チェ》の山巓でした。あの二つの草漉紙は、それぞれ『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』の九十九江源地《ナブナテイヨ・ラハード》から流れてきたのです。私は、あの大氷嶺のなかの天母人の文化、魔境の、天険のなかにも桃源境があると思うと、思わず、われ行かんユートピアへと叫んだのです。
 いま、国をうしなったチェコ人の願いは、どこか地図にない国があれば、そこへ往きたい。そして、亡国よという声を聴かずにいたいというのです。折竹さん、これは国運日々にすすむ東亜の盟主、日本のあなたはとうてい分りますまい。いや、あなたは亡国者の無気力の夢と嗤《わら》うでしょう」
 見ると、ケルミッシュの双頬が二筋三筋濡れている。折竹は、しみじみ神国にいるじぶんの幸福を感じたが、案外、おなじチェコ人でもアメリカ育ちの、ダネックは感じないようにみえた。ケルミッシュは、涙に気づいたの
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