、紅蓮峰《リム・ボー・チェ》であろうし、九十九江源地《ナブナテイヨ・ラハード》とは、三大河の水源という意味であろう。理想郷も、よし今はなくも遺跡ぐらいはあろうと、ますます大氷嶺の奥ふかくのものに心をひかれ、いま冷い密雲に鎖されうしなわれた地平線のかなたを、私はしばらく魅入られたようにながめていた。
 しかし、あの彩光の怪は科学的に解けぬものだろうか。私は、あれが水晶の露頭ではないかと考える。しかもそれが、そばのラジウム含有物によって着色されたのではないかと、推察する。ラジウム、含有瀝青土《ピッチブレンド》?![#「?!」は横一列]――私は、神秘境「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」を大富源としても考えている。
 だが、登行を果さずになんの臆測ぞやだ。これから、外輪|紅蓮峰《リム・ボー・チェ》の裾まで八十マイル強、そこの大氷河、堆石のながれ崎※[#「やまへん」に巨、152−16]《ききょ》たる氷稜あり雪崩あり、さらに、風速七十メートルを越える大烈風の荒れる魔所。私たちは、やがて※[#釐の里を牛にしたもの、152−17]牛《ヤク》をかり地獄の一本道をゆかねばならぬ。
 ところが、三年をついやし三回の攻撃を続けても、ついにダネックらは紅蓮峰《リム・ボー・チェ》の裾の、大氷河を越えることはできなかった。そこを、吹きおろす風は七十メートルを越え、伏しても、はるか谿底《たにそこ》へ飛ばされてしまうのだ。――以上が私の、「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」についての貧しい知識である。それへ折竹が、三回の探検による科学的成果と、偶然、彼が発見した新|援蒋《えんしょう》ルートの話を加える。
「ではまず、本談に入るまえにだね。ダネックの、失敗中にも収穫があったことを話しておこう。それは、バダジャッカのある洪積層の谿谷から、前世界犀《リノツエロス・アンチクス》の完全な化石が発見されたことだ。こいつは、高さが十八フィートもあるおそろしい動物で、まだそのころは犀角もなく、皮膚も今とちがってすべすべとしていた。ところが、こいつがいたのが二十万年ほどまえの、第三紀時代のちょうど中ごろなんだ。洪積層は、それから十万年もあとだよ。すると、後代の地層中にいる気遣《きづか》いのない生物がいるとなると、当然まだ、『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』にはそういうものが残っているのではないか。第三紀ごろから出た原始人類も、やや進化した程度でそのままいるんじゃないか。とマア、こういうような想像もできるわけだね」
「うん、できるだろう。それで、その連中の史前文化のさまを唱《うた》ったのが、とりも直さず孔雀王経ではないかとなるね」
「そうだ、だが、いまのところは話だけにすぎんよ。ところで、ダネックは紅蓮峰《リム・ボー・チェ》の彩光をラジウムのせいだといっているね。なるほど、いちばん毛唐にピンとくるのは欲の話だからね。しかし僕は、どんな富源でも後廻しにしなきァならん」
「なぜだね」
「それはね。香港封鎖後の新援蒋ルートなんだ。インドシナから、雲南の昆明をとおってゆくやつは爆撃圏にある。彼らは、じつに不自由な思いをする夜間輸送しかできんのだ。ところが、事実は然らずというわけで、さかんにイギリス製の軍需品がはいってくる。これは、可怪《おか》しいというので僕へ指令がきた。イギリスの勢力圏であるチベットをとおって、重慶へ通ずる新ルートがあるのではないか?![#「?!」は横一列] しかしそれは、『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』の裾続きで遮断《しゃだん》される。裾といっても、二万フィートを下る山はないのだからね」
「すると」
「ところが、僕は予想を裏切られた。マアこれは、本談のなかで詳しく話すことにしよう。で、『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』で起ったおそろしい出来事だが……惜しいことに、僕には君のような文士を納得させるような喋り方が出来ない。サア、なんというか文学的というのかね。それほど、これは人間のいちばん奥ふかいものに触れている」
 折竹は次のように語りはじめた。

  白痴女と魔境へゆく男

 襤褸《ぼろ》よりも惨《みじ》め――とは、失敗した探検隊のひき上げをいう言葉だろう。ダネックは、基地の察緬《リーミエン》へ這々《ほうほう》の体でもどってきた。ここは、折竹が三年もいる土地である。西雲南の、東経百度の線と北回帰線のまじわる辺り、そこだけ周囲とかけはなれた動物区をいとなんでいる、いわゆる察緬小地区《リーミエン・サフプロヴィンス》の盆地だ。
 折竹は、アメリカ地理学協会の依頼で探検には加わらず、もっぱらここで採集に従っていたのだ。すると、その第三次「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」探検の犠牲者のなかに、 "Kellett《ケレット》" 全覆式《ケビン》オートジャイロの操縦者でタマス木戸という、彼の腹心ともいう二世の青年がいたのである。折竹が、それに気付いたときの失意のさまといったら、剛毅《ごうき》な彼とはとうてい思えなかったほどだ。木戸は飛行中「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」の主峰の雲にひき込まれたのだ。
「とにかく、木戸君を酷使した嫌いがあったかもしれん。しかし、それは上空からの偵察で登攀《とうはん》の手がかりを見つけにゃならんし、じつに、飛行回数百二十一という記録だった。ところが、白、黄、青の三外輪はひっきりなしの雪崩《なだれ》だ。ただ紅蓮峰《リム・ボー・チェ》の大氷河だけに口が空いているが、そこは、君も知る大烈風が吹き下している」
 その夜――。インドのビルマちかい巨竹の森のここでは、ぷんぷんジャングルの風が腐竹のにおいを送ってくる。豺《ジャッカル》が咆《ほ》え、野豚《メンゴウ》が啼《な》く熱林のなか――。そこに、アメリカ地理学協会が建てた丸太小屋がならんでいて、いまダネックが胸毛をあおぎながら、木戸の最期のさまを折竹に話している。
「しかしだよ、木戸君の犠牲でやっと分かったのは、あの『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』の主峰の雲の正体だ。あれは、おおきな気流の渦巻《うずまき》なんだ。海には、ノルーウェーの海岸にメールストレームの渦がある。メッシナ海峡にはカリブジスがあるね。しかしそういう、退潮と逆潮とでできる海流の渦のような気流は、残念なことにあの上空にはない。きっと僕は、主峰があるといわれるあの雲の下が、もの凄い大空洞ではないかと思うんだ。サア、陥没地、大梯状《だいていじょう》盆地というかね。それも、上空に渦をおこさせるほど、ものすごく深いもんだ」
「じゃそれを、木戸君が確めたのかね」
「いや、ただ最後の無電でそう推察できるんだ。機はいま、旋流にまきこまれ、主峰の雲へ近付いていく――それがまず最初のものだった。続いて、もう我らには旋流をのがれる手段はない。神よ、隊員諸君とともにあれ――とあった。と間もなく、たしか五、六分経ってからだろう、とつぜん『大渦巻《ガロフオラ》』というあの一言がはいった。僕らは、もう絶望し胸せまって十字を切った。するとだよ」
「ふむ」
「それからは、誰も感慨ぶかげな顔でものも言わない。そこへ、もうないと断念《あきら》めていたころ、ふいに最後の通信がきた。見た――という、たった一言だが、見たというんだ。そして木戸は、その謎語をのこしたまま無電のオーハラとともに、おそろしい魔境の神に召されたのだ」
 その無電のうち「大渦巻《ガロフオラ》」と打ったころは、たしかに木戸の機は怪雲に入っていたにちがいない。それがたんなる巨大な渦雲にすぎないということは、ただその一言だけでも容易に想像がつくことだ。それから、機は旋回しながら墜《お》ちこんで行ったのだろう。そして、「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」の真核《しんかく》の地上ちかくになって、木戸はたしかに何物かを見たのだ。
 ユートピア?![#「?!」は横一列] 数マイル切り下《お》れた大空洞の底。そこは、零下六十七度の地表とはちがい和《なご》やかな春風が吹き、とうてい想像もできぬような桃源境があるのではないか?![#「?!」は横一列] いや、木戸はそれを見たのではないか?![#「?!」は横一列] と、最後に木戸が投げつけた謎語をめぐりながら、よくやった、最後まで気力を失わなかったのはやはり日本人だと、涙と奇靉《きあい》をひろげる夢想世界のなかで、しばらく折竹は一言もいえなかった。
 そこへ、きゅうにダネックが激越な調子になって、
「いよいよ僕も、『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』とはお別れということになったよ。探検を、一時中止しろという厳命がくだってしまった。それで、いま俺は返電をやったよ。お前らは、この俺に信頼がもてないのか、それとも費用が惜しくて続けられないのかと、いま訊きかえしてやったところだ」
 ダネックが帰ると、きゅうに折竹の目から堰《せき》を切ったような涙がながれてきた。それとともに、なにやら独り言のように俺がやるぞと言いながら、彼は亢奮《こうふん》し、とり乱したようになってしまった。
 なるほど、木戸への哀惜の念もあろう。しかし、折竹ほどの、男の目にさんさんたる粒が宿るということは、もっと、大きな大きな感情の昂《たか》まりでなければならぬ。では、なにが折竹をそうさせたかというに……さっき彼が私に話した新援蒋ルートの所在を、木戸が「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」をさぐる飛行中に発見したからである。
 揚子江上流の一分流の Zwagri 《ツワグリ》河が、「天母生上の雲湖」とバダジャッカの中間あたりを流れている。絶壁と、氷蝕谷の底を、ジグザグ縫うその流れは、やがて下流三十マイルのあたりで激流がおさまり、みるも淀《よど》んだような深々とした瀞《とろ》になる。そしてその瀞が、断雲ただよう絶壁下を百マイルも続いている。
 ところが一日、木戸がその瀞をゆく見馴れぬかたちの舟をみたのだ。どうも、土地のタングウト土人の樅皮舟《メンヌサ》ともちがう。しかも、それが一つや二つではなく二、三十艘も続いている。で結局、それが英海軍でつかう兼帆艀《ピンネス・バージ》だったのだ。とにかく、チベットを横切り「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」を左に見、 Zwagri 《ツワグリ》の大瀞をくだって陸揚げしたものを、一路重慶へもちこむ新援蒋ルートだ。
 折竹は、木戸からその報を得たとき、これは黙視できぬ、と考えた。といってそこは、万嶽雲にけむる千三百キロのかなたである。彼は、切歯扼腕《せっしやくわん》、歯噛《はが》みをして口惜しがったのだ。
 するとそこへ、もしもそこへ行けたならという仮定のもとに、そのルート破壊の大奇案がうかんできた。
 それは、奔湍《ほんたん》巌をかむ急流の Zwagri 《ツワグリ》が、なぜそこまでが激流で、そこからが瀞をなすのか――それを、折竹が謎として考えたからだ。瀞とは、数段の梯状《ていじょう》をなす小瀑の下流か、それとも、ふいに斜状の河床が平坦になるかなのだが、この Zwagri 《ツワグリ》の場合はいずれのものでもない。とここに、「天母生上の雲湖」の九十九江源地《ナブナテイヨ・ラハード》からでて、地下の暗道をとおり水面下に注ぐ川があるのではないか。暗黒河は、中央アジアの大名物である。それが、「天母生上の雲湖」付近に必ずしもないとはいわれまい。
 つまり、 Zwagri 《ツワグリ》のその点をさぐって暗河道をふさぐか、それとも「
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング