Aいく筋も氷の滝をたらし、その末端は鏡のような断崖をなしている。まったく、そこで得る視野は二十メートルくらいにすぎない。暗い積雲と霧のむこうに、不侵地、「天母生上の雲湖」が、傲然《ごうぜん》と倨坐《きょざ》している。
「ここまでだ。前の三回とも、ここからは往けなかったのだ」ダネックが、感に耐えたような面持で、大氷河の開口を指さした。
「ホラ、あれがバダジャッカでも絶えず聴えていた音だよ。千の雪崩の音、魔神の咆哮《ほうこう》と――僕が報告に書いたがね。それは、この開口をのぼった間近で合している二つの氷河の、右側のを吹きおろす大烈風だ。だから、たとえ僕らがこの開口をのぼっても、すぐに地獄の五丁目辺になってしまうのだ。ケルミッシュ君、ここが、人間力の限度、人文の極限だ。どうだ、ゆくかね」
「ゆこう」ケルミッシュは一瞬の躊躇《ちゅうちょ》もなく答えた。「往けるところまで……それは君にお願いすることだがね。僕は大烈風を衝《つ》いてもなお先きへ行く」
すると、ケティが無言のまま頷《うなず》いた。で、とにかく、人間がゆける最後まで往こうと、人夫をそこに残し開口をのぼりはじめた。壁や裂け目から、氷の
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