ヨ、麦粉《ツアンバ》と※[#釐の里を牛にしたもの、151−7]牛《ヤク》のバタを焼く礼拝のにおいがするので、みると、いまいた高僧《ギクー》をはじめ大勢が祈っている。私が、あの峰をなぜ拝むのかと訊くと、その高僧がつぎのように語ってくれた。
「チベット蔵経の、正蔵秘密部《カンジュル・ギュイト》の主経に、孔雀王経と申すのがあります。そのなかに現われる毘沙門天《ヴィシュラヴナ》の楽土が、そもそもあのお峰でござりまする。ではそれが、孔雀王経にはなんと書かれてありましょう。それは、ヒマラヤを越え北へゆくこと数千里、そこに氷に鎖《とざ》される香酔《カンドハマーダ》なる群峰があり、その主峰をよんで阿羅迦槃陀《アラーカマンダ》といい、すなわちそれは、高原中の大都なる意でござりまする。おう、蓮芯中の宝玉よ、アーメン《オム・マニ・パードメ・フム》[#ルビは「おう、蓮芯中の宝玉よ、アーメン」にかかる]」
 と、私は祝福され若干のお布施をとられた。これで、私の来世がはなはだ良いそうなのである。高僧は、なおも節のようなものをつけて、勿体《もったい》そうに語ってゆく。
「で、そこには、四大河の水源をなす九十九江源地《ナブナテイヨ・ラハード》なる湖水あり、その湖上には、具諸衣宮殿《アムラバアムバラワティ》なる毘沙門天《ヴィシュラヴナ》の大宮殿。さらに、外輪山はこれ四峰あり、阿※[#「くちへん」に屯、151−18]曩※[#「くちへん」に屯、151−18]《アターナータ》、倶曩※[#「くちへん」に屯、151−18]《クナータ》、波里倶娑曩※[#「くちへん」に屯、151−18]《バラクシナータ》、曩拏波里迦《ナータブリカ》。そうしてそれぞれの峰には、発する彩光の色により、四とおりの別名あり。紅《くれない》にかがやくは、紅氷蓮《バードマ》の咲く花酔境《プシパマーダ》、白光を発するは、白氷蓮《クンダリカ》の咲く吉祥酔境《シリマーダ》などでござりまする。そこは、氷嶺とは申せ気候春のごとく、あらゆる富貴、快楽を毘沙門天《ヴィシュラヴナ》がお与えくださいます。私どもも、そこへ行き着きとうて修行いたしますなれど、まだ花酔境の裾をみたものもございませぬ」
 ユートピア、これこそ喇嘛《らま》の夢想楽土であるが、しかし孔雀王経中の四峰の彩光といい、すべてが現実そのままなのも奇怪だ。花酔境《プシパマーダ》とは、すなわち今いう紅蓮峰《リム・ボー・チェ》であろうし、九十九江源地《ナブナテイヨ・ラハード》とは、三大河の水源という意味であろう。理想郷も、よし今はなくも遺跡ぐらいはあろうと、ますます大氷嶺の奥ふかくのものに心をひかれ、いま冷い密雲に鎖されうしなわれた地平線のかなたを、私はしばらく魅入られたようにながめていた。
 しかし、あの彩光の怪は科学的に解けぬものだろうか。私は、あれが水晶の露頭ではないかと考える。しかもそれが、そばのラジウム含有物によって着色されたのではないかと、推察する。ラジウム、含有瀝青土《ピッチブレンド》?![#「?!」は横一列]――私は、神秘境「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」を大富源としても考えている。
 だが、登行を果さずになんの臆測ぞやだ。これから、外輪|紅蓮峰《リム・ボー・チェ》の裾まで八十マイル強、そこの大氷河、堆石のながれ崎※[#「やまへん」に巨、152−16]《ききょ》たる氷稜あり雪崩あり、さらに、風速七十メートルを越える大烈風の荒れる魔所。私たちは、やがて※[#釐の里を牛にしたもの、152−17]牛《ヤク》をかり地獄の一本道をゆかねばならぬ。
 ところが、三年をついやし三回の攻撃を続けても、ついにダネックらは紅蓮峰《リム・ボー・チェ》の裾の、大氷河を越えることはできなかった。そこを、吹きおろす風は七十メートルを越え、伏しても、はるか谿底《たにそこ》へ飛ばされてしまうのだ。――以上が私の、「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」についての貧しい知識である。それへ折竹が、三回の探検による科学的成果と、偶然、彼が発見した新|援蒋《えんしょう》ルートの話を加える。
「ではまず、本談に入るまえにだね。ダネックの、失敗中にも収穫があったことを話しておこう。それは、バダジャッカのある洪積層の谿谷から、前世界犀《リノツエロス・アンチクス》の完全な化石が発見されたことだ。こいつは、高さが十八フィートもあるおそろしい動物で、まだそのころは犀角もなく、皮膚も今とちがってすべすべとしていた。ところが、こいつがいたのが二十万年ほどまえの、第三紀時代のちょうど中ごろなんだ。洪積層は、それから十万年もあとだよ。すると、後代の地層中にいる気遣《きづか》いのない生物がいるとなると、当然まだ、『
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