ha−mo−Sambha−cho 《ハーモ・サムバ・チョウ》について簡単な説明をしておこうと思う。
 支那青海省の南部チベット境を縫い、二万五千フィート以上の高峰をつらねる巴顔喀喇《パイアンカラ》山脈中に、チベット人が、「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」とよぶ現世の楽土、そこにユートピアありと信じている未踏の大群峰がある。またそこを、鹹湖《かんこ》「青海《ココ・ノール》」あたりの蒙古人は Kuso−Bhakator−Nor 《クーゾ・バカトル・ノール》――すなわち、「英雄のゆく墓海」と称している。
 成吉思汗《ジンギスカン》が、甘粛《かんしゅく》省のトルメカイで死んだというのみで、その後彼の墓がいずこか分らないのも、おそらく此処《ここ》へ運ばれたのではないかといっている。そうしてそこは、揚子江、黄河、メーコン三大河の水源をなし、氷河と烈風と峻険《しゅんけん》と雪崩《なだれ》とが、まだ天地|開闢《かいびゃく》そのままの氷の処女をまもっている。では、ここはたんなるヒマラヤのような大峻嶺かというに、ここほど、さぐればさぐるほど深まる謎をもつところはない。まず私たちは名称について考えよう。
 山でありながら、蒙古称もチベット称も山といっていない。一つは雲湖、一つは墓海――。してみると、その連嶺の奥に湖水でもあるのかというに、そこはまだ、飛行機時代の今日でありながら俯観したものがないのだ。エヴェレストでさえ、フェロース大尉らによって空中征服がなし遂げられている。ところが、ここではそれも出来ないというのは、主峰をつつむ常住不変の大雲塊があるからだ。うごかぬ雲、おそらく天地開闢以来おなじままだろう雲――。およそ雲といえば流動を思う読者諸君は、ここでまず最初の謎を知ったわけだ。
 なるほど、モンスーンの影響をうける季節のこの連嶺の密雲はすさまじい。しかし、その季節以外は時偶《ときたま》霽《は》れて、 Rim−bo−ch'e 《リム・ボー・チェ》(紅蓮峰)ほか外輪四山の山巓《さんてん》だけが、ちらっと見えることがある。しかし主峰は、いつも四万フィートにもおよぶ大積乱雲に覆われている。だいたいこれは、気象学の法則にないことで、二万五千フィートの上空には巻層雲しかない。それが、時には雷を鳴らし電光を発し、大氷嶺上で時ならぬ噴火のさまを呈する――その怪雲は明らかに不可解だ。と同時に、雲湖とチベット人がいい、墓海と蒙古人がいうわけも、読者諸君にのみ込めたことだろうと思う。
 じっさい、裾《すそ》はるかを遊牧する土民中の古老でさえ、その主峰の姿をいまだに見たものはない。したがって、高さも一体どのくらいなのか分らず、あるいは、そこには山がなく雲だけではないのか?![#「?!」は横一列] それとも、エヴェレストを抜く三万フィート級の、世界第一の高峰が知られずに隠れているのではないかと……いま世界学界の注視と臆測をいっせいに浴びているこの大氷巓は、またラマ僧が夢想するユートピアの所在地だ。
 かの大雲塊でさえ容易ならぬことだのに、時偶、姿をあらわす外輪四山の山巓が、それぞれちがった色の綺《き》らびやかな彩光をはなつのだ。すなわち、紅蓮峰《リム・ボー・チェ》は紅にひかり、さらに、白蓮、青蓮、黄蓮と彩光どおりの名が、それぞれの峰につけられている。でここに「絵入ロンドン・ニュース」の短文ではあるが、第一回「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」探検記を隊長ダネックが寄せたなかから、彩光に関する部分を抜きだして掲げてみよう。

 ――この霞《かす》んだ空のひかりと淡い曇りをさして、この地方の土民は晴天だといっている。それほど、碧《あお》い空と陽のひかりは滅多《めった》に訪れてこない。私たちはいま、ここが人界の終点だろうと思うバダジャッカの喇嘛《らま》寺で、いまに現われるという彩光をみようとしている。
 やがて、頬をさすような冷たい霧が消えたむこうに、まるで岬をみるような山|襞《ひだ》が隠見しはじめ、と思うまに、はるかな雲層をやぶって霧が峰《ネーベル・ホルン》[#ルビは「霧が峰」にかかる]とでもいいたいような、ぼやっと白けた角のような峰があらわれた。私が、かたわらの高僧《ギクー》にあれですかと聴くと、いいえと、銅びかりのしたその老人は首をふった。その峰は、ここが海抜約一万六千フィートとすれば、おそらくそれを抜くこと八千フィートあまりだろう。私はそこで、首の仰角をさらにたかめて空をみた。
 まもなく、よもやそこにと思われる中空の雲のあいだから、ぬうっと突きでた深紅の絶巓――。おう、まだ地球が秘めている不思議の一つと思うまに、その紅《くれない》の峰は瞬《またた》くまに姿を消した。とそこ
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