人外魔境
天母峰《ハーモ・サムバ・チョウ》
小栗虫太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)天母峰《ハーモ・サムバ・チョウ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)北|雲南《うんなん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)折竹[#底本では「竹折」の誤り]
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  神踞す「大聖氷」

 わが折竹孫七の六年ぶりの帰朝は、そろそろ、魔境、未踏地の材料も尽きかけて心細くなっていた私にとり、じつに天来の助け舟のようなものであった。では、それほど私を悦ばせる折竹とはいかなる人物かというに、彼は鳥獣採集人としての世界的フリーランサーだ。この商売の名は、海南島の勝俣翁によってはじめて知った方もあろうが、日本はともかく、海外ではなかなかの収入になる。ことに折竹は、西南奥支那の Hsifan territory  《シフアン・テリトリー》――すなわち、北|雲南《うんなん》、奥|四川《しせん》、青海《せいかい》、北チベットにまたがる、「西域夷蛮地帯《シフアン・テリトリー》」通として至宝視されている男だ。
 たとえば、フィリッピンのカガヤン湖で獲《と》れる世界最小の脊椎動物、全長わずか二分ばかりの蚤沙魚《リリプチャン・ゴビー》を、北雲南|麗江《リーキャン》連嶺中の一小湖で発見し、動物分布学に一大疑問を叩きつけたのも彼。さらに、青い背縞《せじま》のある豺《ジャッカル》の新種を、まだ外国人のゆかぬ東北チベットの鎖境――剽盗《ひょうとう》 Hsiancheng 《シアンチェン》族がはびこる一帯から持ちかえったのも彼だ。そうして今では、西域夷蛮地帯《シフアン・テリトリー》のエキスパートとして名が高い。
 しかし折竹は、どうも採集人というそれだけではないらしい。理学士の彼が教室にとどまらず、とおく海外へながれて西南奥支那へ入りこみ、ほとんどを蛮雨裡に探検隊とともに暮していることは……いかに自然児であり冒険家である彼とはいえ、少々それだけは、首肯しかねる節があるように思われる。
 事実、折竹[#底本では「竹折」の誤り]には別の一面があるのだ。彼は、外国探検隊員という絶好の名目を利用して、その都度、西南奥支那の秘密測量をやっている。日本が他日、この地方への大飛躍を試みるとき、その根底となる測地の完成が、いま彼の双肩にかかっている。つまり、外国製地図の誤謬《ごびゅう》をただし、一度も日本人の手で実測が行われていない、この地方の地図を完璧なものにしようとするのだ。
 しかしそれは、忍苦と自己犠牲の精神に富んだ日本人中の日本人、彼折竹を俟《ま》ってはじめてなし得ることだ。彼でなければ、誰が事変中の支那奥地へのこのこと乗りこめるだろう。あの海外学会への名声がなければ、誰が外国旗のもとに万全の保護をしてくれるだろう。いま私は、その百万に一人ともいう珍しい男をみている。顔は嶽風と雪焼けで真っ黒に荒れ、頬は多年の苦労にげっそりと削《こ》けている。私はなんだか鼻の奥がつうんと痛くなるような気持で、しばらくじぶんの用件をもち出すのも忘れていたほどだ。そこへ、折竹が察したような態度で、
「君は、 Lha−mo−Sambha−cho 《ハーモ・サムバ・チョウ》を知っているかね」と訊いた。
「 Lha−mo 《ハーモ》……?![#「?!」は横一列]」私が、しばらく目を見はったのみでなにも言えなかったほど、それほど、のっけから唖然となるような名前だ。彼が……では、 Lha−mo−Sambha−cho 《ハーモ・サムバ・チョウ》へ行ったのか、いやいや、あすこへは決して行けるわけがないと、心では打ち消しながらやはり訊かずにはいられない。
「君が、まさか往《い》ったのではないだろうね」
「いや、往けばこそだよ。あすこは、米国地学協会《ナショナル・ジェオグラフィック・ソサエティ》のダネック君が、ここ数年間|執拗《しつよう》な攻撃を続けていた。僕は、その最後の四回目のとき往ったのだが……そのときの、想像を絶する悲劇のさまを君に話したい。じっさい僕も、そのときの衝撃で休養が必要になったのだ」
 といわれ、はじめて気がついたように折竹をみると、色こそ、※[#「けものへん」に果、148−9]※[#「けものへん」に羅、148−9]《ローロー》の※[#「けものへん」に栗、148−9]※[#「けものへん」に敕、148−9]《リューシ》のような夷蛮《いばん》と異らないが、どこかに影がうすれたような憔悴《しょうすい》の色がある。これは、きっと肉体的な衝撃《ショック》よりも精神的なものだろうと、思うとともに期待のほうも強まってくる。彼はたしかに、なにか想像もできぬような異常な出来事に打衝《ぶつか》ったにちがいない。
 ところでまず、 L
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