V母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』にはそういうものが残っているのではないか。第三紀ごろから出た原始人類も、やや進化した程度でそのままいるんじゃないか。とマア、こういうような想像もできるわけだね」
「うん、できるだろう。それで、その連中の史前文化のさまを唱《うた》ったのが、とりも直さず孔雀王経ではないかとなるね」
「そうだ、だが、いまのところは話だけにすぎんよ。ところで、ダネックは紅蓮峰《リム・ボー・チェ》の彩光をラジウムのせいだといっているね。なるほど、いちばん毛唐にピンとくるのは欲の話だからね。しかし僕は、どんな富源でも後廻しにしなきァならん」
「なぜだね」
「それはね。香港封鎖後の新援蒋ルートなんだ。インドシナから、雲南の昆明をとおってゆくやつは爆撃圏にある。彼らは、じつに不自由な思いをする夜間輸送しかできんのだ。ところが、事実は然らずというわけで、さかんにイギリス製の軍需品がはいってくる。これは、可怪《おか》しいというので僕へ指令がきた。イギリスの勢力圏であるチベットをとおって、重慶へ通ずる新ルートがあるのではないか?![#「?!」は横一列] しかしそれは、『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』の裾続きで遮断《しゃだん》される。裾といっても、二万フィートを下る山はないのだからね」
「すると」
「ところが、僕は予想を裏切られた。マアこれは、本談のなかで詳しく話すことにしよう。で、『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』で起ったおそろしい出来事だが……惜しいことに、僕には君のような文士を納得させるような喋り方が出来ない。サア、なんというか文学的というのかね。それほど、これは人間のいちばん奥ふかいものに触れている」
 折竹は次のように語りはじめた。

  白痴女と魔境へゆく男

 襤褸《ぼろ》よりも惨《みじ》め――とは、失敗した探検隊のひき上げをいう言葉だろう。ダネックは、基地の察緬《リーミエン》へ這々《ほうほう》の体でもどってきた。ここは、折竹が三年もいる土地である。西雲南の、東経百度の線と北回帰線のまじわる辺り、そこだけ周囲とかけはなれた動物区をいとなんでいる、いわゆる察緬小地区《リーミエン・サフプロヴィンス》の盆地だ。
 折竹は、アメリカ地理学協会の依頼で探検には加わらず、もっぱらここで採集に従っていたのだ。すると、その第三次「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」探検の犠牲者のなかに、 "Kellett《ケレット》" 全覆式《ケビン》オートジャイロの操縦者でタマス木戸という、彼の腹心ともいう二世の青年がいたのである。折竹が、それに気付いたときの失意のさまといったら、剛毅《ごうき》な彼とはとうてい思えなかったほどだ。木戸は飛行中「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」の主峰の雲にひき込まれたのだ。
「とにかく、木戸君を酷使した嫌いがあったかもしれん。しかし、それは上空からの偵察で登攀《とうはん》の手がかりを見つけにゃならんし、じつに、飛行回数百二十一という記録だった。ところが、白、黄、青の三外輪はひっきりなしの雪崩《なだれ》だ。ただ紅蓮峰《リム・ボー・チェ》の大氷河だけに口が空いているが、そこは、君も知る大烈風が吹き下している」
 その夜――。インドのビルマちかい巨竹の森のここでは、ぷんぷんジャングルの風が腐竹のにおいを送ってくる。豺《ジャッカル》が咆《ほ》え、野豚《メンゴウ》が啼《な》く熱林のなか――。そこに、アメリカ地理学協会が建てた丸太小屋がならんでいて、いまダネックが胸毛をあおぎながら、木戸の最期のさまを折竹に話している。
「しかしだよ、木戸君の犠牲でやっと分かったのは、あの『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』の主峰の雲の正体だ。あれは、おおきな気流の渦巻《うずまき》なんだ。海には、ノルーウェーの海岸にメールストレームの渦がある。メッシナ海峡にはカリブジスがあるね。しかしそういう、退潮と逆潮とでできる海流の渦のような気流は、残念なことにあの上空にはない。きっと僕は、主峰があるといわれるあの雲の下が、もの凄い大空洞ではないかと思うんだ。サア、陥没地、大梯状《だいていじょう》盆地というかね。それも、上空に渦をおこさせるほど、ものすごく深いもんだ」
「じゃそれを、木戸君が確めたのかね」
「いや、ただ最後の無電でそう推察できるんだ。機はいま、旋流にまきこまれ、主峰の雲へ近付いていく――それがまず最初のものだった。続いて、もう我らには旋流をのがれる手段はない。神よ、隊
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