黷ゥと、時々四人はぐるりの壁に見恍《みほ》れるのである。そのうち、ケルミッシュがアッと叫んだ。みると、氷のむこうにまっ黒な影がみえる。
「大懶獣《メガテリウム》」と呼吸《いき》を愕《ぎょ》っと引いて、ダネックが唸るように言った。「あれも、第三紀ごろの前世界動物だ。高さが、成獣なれば二十フィートはあるんだがね」
 それは、やや距離があってか、そう巨《おお》きくは見えない。しかしこれで、「天母生上の雲湖」の秘密の一部を明かにした。
 やがて往くと、一本その長毛が氷隙から垂れている。ダネックは、それを大切そうに蔵《しま》いこんだ。すると、四人の間に期待とも、不安ともつかぬ異様なものがはじまった。どうもそれが、氷河に埋ったようにはみえない。なんだか、大懶獣《メガテリウム》のいるあたりが空洞のように思われて、いまにも、氷壁をくだいた手が躍りかかりそうな気がする。そこへ、ダネックが息窒《いきづま》ったような叫びをした。
「どうした」
 みると、頸筋《くびすじ》を撫でた手がべっとり血を垂らしている。そこで、恐怖は絶頂に達したが、別に、氷をやぶって突きでた爪のようなものもない。それに、ダネックの頸には傷もなく、痛みもないのになんとしたことか。あくまで、粘ったまっ赤な血だ。ダネックはじっとながめていたが、「なアんだ」とフフンと笑い、「紅藻《ヒルデブランチア・リヴラリス》の、じつに細かいやつだ」と言った。
 見ると、紅藻をふくんだ天井の氷が飴《あめ》のように垂れてくる。しかも一層、四人がうごく微動につれ甚だしくなってくる。氷河氷の雨が、簾《すだれ》を立てたように降りしきるかと思えば、また、太く垂れて石筍《せきじゅん》をつくり、つるつる壁を伝わる流れは血管のように無気味だ。そして今にも、ゆるい弧をえがいて、天井が垂れてきそうな気がする。四人は、いま氷河のちょうど核へ達したのだ。
「天地開闢以来、地球はじまって以来、まだ、氷河の芯にあるこの泥水をみたものはあるまい」
 折竹が、驚異と感動にぶるっと声をふるわせると、
「そうだよ。しかし、どうも僕は勘違いをしていたらしい。それは、紅蓮峰《リム・ボー・チェ》の嶺のあの怪光なんだが、さいしょ僕は、ラジウムの影響をうけた水晶とばかり思っていた。ところがどうやら、氷のしたのこの紅藻らしいんだよ。こんな聖地で欲をだしたんで失敗したのかも知らんね」とダネックが自嘲気味にいうのだった。
 やがて、芯の泥氷部をさけて二、三時間も掘ると、なつかしい外光がながれ入ってきた。
 出ると、大烈風はもう背後になっている。そこは先刻は岩陰でみえなかったが、まるで色砂を撒《ま》いたような美しい蘚苔《こけ》が咲いている。ところが、前方をながめれば、これはどうしたことか、そこは、流れをなす堆石の川だ。せっかく、大烈風を破ったと思えば危険な堆石のながれ。四人は、そこでもう前方へ進めなくなってしまった。
「これまでだ。もう、われわれは断念《あきら》めようじゃないか」とダネックが力なげに言いだした。「僕らは、あの危険な開口をのぼり、大烈風をやぶった。それだけでも、前人未達の大覇業《だいはぎょう》ということができる。帰ろう。今夜は蘚苔《こけ》のなかへ寝て、明日は戻ろう」
 しかし、それがもう出来なくなっていたというのは、なにも、さっき掘った洞が塞ったというのではない。とにかく、その夜四人を包みはじめた不思議な力をみれば分る。つまり「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」の掟に従わされたのだ。その夜、なにやらケティが草に言いはじめた。
「マァニの草、あたしに惚れたって、お前じゃ駄目よ。そんなに、べたべた付着《くっつ》いたって、あたしゃ嫌」
 よく、野|葡萄《ぶどう》の巻|鬚《ひげ》の先の粘液が触れるように、ケティにベタベタ絡《から》みついてくる草がある。その情緒を知らせる微妙な力が、彼女をじわりじわりと包んでいった。そこへ、相応じたようにケルミッシュも言う。
「そうかね、この草は寒いと言っている。サアサア、がたがた顫《ふる》えなくても僕が暖めてやる」
 それは、咳嗽菽豆《くしゃみそらまめ》に似た清潔好きな小草で、塵《ごみ》がはいると咳嗽《くしゃみ》のようなガスをだす。そして、いきんだように葉をまっ赤にして、しばらく、ぜいぜい呼吸《いき》をきるように茎をうごかしている。そういう植物の情緒や感覚が触れてくる、二人はもう普通の人ではない。ダネックも折竹もつつき合うだけで、見るも聴くも気味悪そうに黙っていた。魔境「天母生上の雲湖」へ溶けこんでゆくこの二人を、救い出すのはどうしたらいいのだろう。
「サア、行こう。ここで愚図愚図してたって仕様がないよ、君」翌朝、さんざん押問答のすえ焦《い》らついてきたダネックが、語気
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