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 折竹は、俺もかと思うとぞっと気味わるくなった。じぶんだけは、男のなかでも超然として、なんの白痴女と些細《ささい》も思わぬと考えていたのに、やはり、ダネックがみるじぶんの目もちがっている?![#「?!」は横一列] それが、「天母生上の雲湖」の不思議な力だろうか。いまに、このバダジャッカで愚図付いているうちには、全員が気違いになってしまうのではないか。さすが、援蒋ルートをふさぐ大使命をもつだけに、まだ折竹は正常さをうしなっていない。
 そこで、二人を急《せ》きたてて攻撃準備をいそぎ、いよいよその三日後魔境へ向うことになった。海抜一万六千フィートのここはなんの湿気もない。ただ烈風と寒冷が髭《ひげ》を硬ばらせ、風は隊列を薙《な》いで粉のような雪を浴びせる。やがて、櫛《くし》のような尖峰《せんぽう》を七、八つ越えたのち、いよいよ「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」の外輪四山の一つ、紅蓮峰の大氷河の開口《くち》へでた。
 そこは、天はひくく垂れ雲が地を這《は》い、なんと幽冥《ゆうめい》界の荒涼たるよと叫んだバイロンの地獄さながらの景である。氷河は、いく筋も氷の滝をたらし、その末端は鏡のような断崖をなしている。まったく、そこで得る視野は二十メートルくらいにすぎない。暗い積雲と霧のむこうに、不侵地、「天母生上の雲湖」が、傲然《ごうぜん》と倨坐《きょざ》している。
「ここまでだ。前の三回とも、ここからは往けなかったのだ」ダネックが、感に耐えたような面持で、大氷河の開口を指さした。
「ホラ、あれがバダジャッカでも絶えず聴えていた音だよ。千の雪崩の音、魔神の咆哮《ほうこう》と――僕が報告に書いたがね。それは、この開口をのぼった間近で合している二つの氷河の、右側のを吹きおろす大烈風だ。だから、たとえ僕らがこの開口をのぼっても、すぐに地獄の五丁目辺になってしまうのだ。ケルミッシュ君、ここが、人間力の限度、人文の極限だ。どうだ、ゆくかね」
「ゆこう」ケルミッシュは一瞬の躊躇《ちゅうちょ》もなく答えた。「往けるところまで……それは君にお願いすることだがね。僕は大烈風を衝《つ》いてもなお先きへ行く」
 すると、ケティが無言のまま頷《うなず》いた。で、とにかく、人間がゆける最後まで往こうと、人夫をそこに残し開口をのぼりはじめた。壁や裂け目から、氷の不思議な青い色がのぼっている。そして、それは一足ごとが生命の瀬、なんだか故郷が思われ、孤独の感が深くなってくる。やがて四人は、すぐ大烈風へでる岩陰にかたまって、この魔境をまもる大偉力をながめていた。
 まさに、カリブ海の颶風《ハリケーン》の比ではないのだ。それは、※[#「風へん」に火を三つ、174−12]《ひょう》という疾風の形容より、むしろもの凄い地鳴りといったほうがいいだろう。
 飛ぶ氷片、堆石の疾走――みるみるケルミッシュに絶望の色がうかんでくる。
 すると、この難関をあくまで切り抜けて、ぜひ魔境に入り九十九江源地《ナブナテイヨ・ラハード》の、 Zwagri 《ツワグリ》の水源をふさがねばならぬ折竹は……。しばし、目をとじていたが、ポンと手をうって、
「ある、名案がある」とさけんだ。
「えっ、一体どんなことがあるんだ?」
「それはね、氷河の表面をゆかず底をゆくことなんだ。たとえ、どんな大科学者がどんな発明をしようと、たとえば、千ポンドの錘《おも》りをつけようと、この風のなかは往けぬよ。しかし、氷罅《クレヴァス》をくだって洞を掘ったら、どうだ」
「なるほど」ダネックもともども叫んだのである。
「そうだ。表面氷河は氷斧《ピッケル》をうけつけぬ。しかし、内部《なか》は飴《あめ》のように柔かなんだ。掘れるよ。とにかく、折竹のいうとおり氷罅《クレヴァス》を下りてみよう」
 やがて、青に緑にさまざまな色に燃える氷罅《クレヴァス》の一つを四人が下りていった。試しに氷斧《ピッケル》をあてると、ボロッとそこが欠けた。

   アジアの怒り

 それは、大レンズのなかへ分け入ってゆくような奇観だった。さいしょは、疲労と空気の稀薄なためおそろしい労作だったが、だんだん先へゆくにしたがい氷質が軟かくなる。しかも、地表とはちがい、ほかつくような暖かさ。そこで諸君に、氷河の内部がいかなるものか想像できるだろうか。
 四人はいま、微妙なほんのりした光に包まれている。しかも、四方からの反射で一つの影もない。円形の鏡体、乱歩の「鏡地獄」のあれを、マア読者諸君は想像すればいいだろう。そのうえ、ここはさまざまな屈折が氷のなかで戯《たわむ》れて、青に、緑に、橙色《オレンジ》に、黄に、それも万華鏡のような悪どさではなく、どこか、縹渺《ひょうびょう》とした、この世ならぬ和らぎ。これが、人間をはばむ魔氷の
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