tの乾脂の燃える音が廊下を伝わってくる。ひょいと覗《のぞ》くと、ケティが平らな顔をニタリニタリとさせながら、向うのケルミッシュの部屋のなかへ入ってゆく。ダネックは、もの好き半分、扉のすきから覗《のぞ》きこんだ。
「なに、なんの用できたね」ケルミッシュが空咳《からぜき》をした。見るとなんだか、不味《まず》いものがいっぱい詰まったような顔だ。
「なんだといって……?![#「?!」は横一列] なんだか、あたいにも訳が分らないんだよ」
と言うと、すすっと寄ってきて舌っ足らずの声で、
「先生……マア起きていたんだね。あたいを、先生は待っていてくれたんじゃないのかね」
と、ケルミッシュが辟易するさまを、ダネックが笑いながら話したのである。あんな白痴を、ただ天母《ハーモ》語が読めるだけで連れてくるもんだから、ケルミッシュ君も、えらい目に逢うんだ。だいたい、無思慮、無成算でケルミッシュ君は駄目だ。やはり、これは俺の探検だねと、ダネックが鼻高々に言うのである。しかしそれは、ただ浅いとこしか見えぬ、人間の目にすぎない。翌朝から、すべてが白痴ケティを中心に廻転してゆくようになった。
朝まだき、とつぜん銅鑼《どら》や長|喇叭《らっぱ》の音がとどろいた。みると、耳飾塔《エーゴ》や緑光|瓔珞《ようらく》をたれたチベット貴婦人、尼僧や高僧《ギクー》をしたがえて活仏《げぶつ》が到着した。生き仏さま《ミンチ・フツクツ》[#ルビは「生き仏さま」にかかる]、おう、蓮芯の賓石よ《オムマニ・バートメ》[#ルビは「おう、蓮芯の賓石よ」にかかる]、南無――と、寺中が総出のさわぎだった。探検隊がそれに相当の寄進をしたので、午後、隊のための祈願をすることになった。読経の合間合間に経輪がまわっている。むせっぽい香煙や装飾の原色。だんだんケティは眩暈《めまい》のようなものを感じてきた。すうっと、目のまえのものが遠退《とおの》いたと思うと、ケティはそれなりぐたりと倒れた。
気がつくと、瑜伽《ナル・ヨル》、秘密修験《サン・ナク》の大密画のある、うつくしい部屋に臥《ね》かされていた。黄色い絹の天蓋に、和※[#「門がまえ」に眞、171−11]《ホータン》の絨緞《じゅうたん》。一見して、活仏《げぶつ》の部屋であるのが分る。すると、西蔵《チベット》靴をかたりかたりとさせながら、活仏《いきぼとけ》の影がすうっと流れてくる。むくんだ、銅光りのする顔がちょっと覗いたが、それはやがてひれ伏した。
「生き観音《ミンチ・カンキン》[#ルビは「生き観音」にかかる]、おう、まことの観音《カンキン》とは貴女《あなた》さまじゃ。毘沙門天《ヴィシュラヴナ》の富、聖天《カネシャ》の愉楽を、おう、われに与えたまえ」
ケティには、なんでそういわれたのか、考える頭脳《あたま》はない。常人でも、それはじつに解しがたいことだ。しかし彼女は、それを機会にてんで無口になった。それまでの、のへのへと笑み妄言《もうげん》を言うケティは、もう何処かへ消えてしまったのだ。ただ、「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」を覆う密雲をのぞんでは、時々、きらっと光っては消える大氷河のかがやきに……そのときの笑みはてんで違うものになっていた。彼女は、なにかの叫び声をうけはじめたのだ。
「ケティは、何処にいるね」ダネックがちょっと意気込んだ声で折竹に訊いたが、相手の様子をみるといきなり言い紛《まぎら》わせ、「いやね、大氷河のしたのAF点の傾斜を測りたいんだ。ケルミッシュ君がいじっていた経緯計《セオドライト》はどうしたね。君、ケルミッシュ君を見かけなかったかね」
それは、やはり折竹も気付いていたことだったけれど、きゅうにケティが美しくみえてきたのだ。あるいはそれは、周囲の自然の線が微妙な作用をするのだろうか。荒茫ただ一色の雪の高原にたち……風や雷にきざまれた鋸《のこぎり》状の尾根を背にしたケティは、あの醜さを消し神々《こうごう》しいまでに照り映える。と急に、彼女をみる男の目もちがってくる。ダネックもケルミッシュも、ケティを雄のように追いはじめたのだ。
「ダネック君、君は近ごろどうかしているね」折竹が、もしケティの問題でこの探検隊が崩《くず》れるようではと、一日、ダネックをとらえて真剣に問いはじめたのだ。
「どうしたって?![#「?!」は横一列] 僕は相変わらずの僕さ」
「いや違う。まえには、もっと剛毅不屈なダネックだったね。それが、山男のくせに女の尻を追いまわす。それも白痴《ばか》のケティとは、呆れたもんだと思うよ。ケティは……やはり白痴で醜い女さ。ただ、それをみる君たちの目が、妙な工合に違ってきただけなんだ」
「そうか、僕もそういや気がついていることがあるんだ。君がケティをみる目も尋常じゃないよ
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