ヘ意味は分らぬが音読はできる。と、こんな工合で、はじめて『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』の言葉が完全に読めたわけです。ケティは蒙古型癡呆《モンゴロイド》というよりも、天母型癡呆《ハーモロイド》ですよ」
「すると」と折竹が口をはさんで、「きっと太古に、ヨーロッパへきた天母《ハーモ》人の一族があったのでしょう」
「そうです。その血が、なんでいまの白人種に絶無といえるでしょう。ですから、私は東洋思想に溶けこんでいるせいか、有色人|蔑視《べっし》をやる白人種を憎みます。ナチスの浄血、アングロサクソンの威――かえって彼らは、じぶんらにある創成の血を蔑《さげす》んでいる」
続いてケルミッシュは、いずれなにかの役にきっと立つと思うので、ケティを連れてきたといった。世界に一人、秘境「天母生上の雲湖」の言葉を読む白痴のケティ、その彼女を連れて魔境のなかへ消えようという……このケルミッシュの探検ほどおよそ奇怪なものはない。
折竹は、それから懸命にダネックを説いた。途中は、麗江《リーキヤン》のあたりから二万フィート級の嶺々が、約七、八百キロのあいだをぎっしりと埋めている。それに、 KoLo 《コロ》のように慓悍な夷蛮はあり、ともかく西域夷蛮地帯《シフアン・テリトリー》をゆくには経験に富んだ、ダネックのようなエキスパートを俟《ま》たねばならぬ。しかし、ついに折竹は相手を説き伏せた。名を、ダネック探検隊とするということにして、ともかく、名利心を釣り納得させたのである。よかったと、彼はホッと吐息をした。これで、いよいよ援蒋ルート遮断の日も近いと、ひそかに故国の神へ折竹は感謝した。
これには、富有なケルミッシュが全資産を注ぎこみ、いよいよ準備成った翌年の三月、蜿蜒《えんえん》の車輛をつらねる探検隊が察緬《リーミエン》をでた。そこから大理《タリ》、大理から麗江《リーキヤン》、じつにそこが西域夷蛮地帯《シフアン・テリトリー》の裾だ。北緯二十六度、V字型の谿《たに》には根樹《ガツマル》の気根、茄苳《カターン》、巨竹のあいだに夾竹桃《きょうちくとう》がのぞいている。
「おい、どうした君、歩けないかね」
ケルミッシュが、おそらく老年の豹でもあるいたらしい泥濘《でいねい》の穴に足をとられ、ぺたりと、面形を地につけ動けなくなってしまった。そこには、暖水をこのむ大|蟻《あり》が群れている。陰湿の、群葉のしたは湯気のような沙霧《ヘーズ》だ。
「さあ、足を踏んばって……、おいケティ、ケルミッシュ君に肩を貸してやれ」
「なんて、意気地がない。男ざかりが、泡《あわ》アふっくらって可笑《おか》しくなるよ。おや、なんてえ滑《すべ》っこい肌だろう」
この、疲れをしらない石人のような頑健さ。時々ケティは弱いケルミッシュの生杖《いきづえ》になっていた。
しかし、そこからは一歩一歩がたかく、それまで栴檀《せんだん》のあいだに麝香鹿《じゃこうじか》があそんでいた亜熱帯雲南が、一変して冬となる。揚子江の上流金沙江の大絶壁。じつに、雲をさく光峰《ピーク》からくらい深淵の河床にかけ、見事にも描くおそろしい直線。それが、一枚岩というか屏風《びょうぶ》岩といおうか、数千尺をきり下れる大絶壁の底を、わずかな苔経《たいけい》をさぐり腹|這《ば》いながらゆくようなところがある。そこは、鳥も峡谷のくらさにあまり飛ばないところ……。そこを、やっと抜けでて西康省に入ればいよいよ崎嶇《きく》をかさねる西域夷蛮地帯《シフアン・テリトリー》の山々。
あるいは恒雪線《スノウ・ライン》にそい、あるいはすこし下って、一万フィートあたりの石南花《しゃくなげ》帯をゆく。巨峰、鋸歯状の尾根が層雲をぬき、峡谷は濃霧にみち、電光がきらめく。そして、雹《ひょう》、石のような雨。またその間に岩陰に目をむく、土族を追えば黒豹におどされる。まったく、それは四月間の地獄のような旅だった。そうして、七月のはじめバダジャッカに着いたのである。
そこには、バダジャッカの喇嘛《らま》寺があり、人煙はそこで杜絶える。しかし、そこから「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」へかけては大高原をなしている。
その夜、断雲からもれる月が雪のうえに輝いていた。巌の輪郭をきざんだ手近の尾根をながめながら、折竹とダネックがひそかに語っている。それは、ゆうべダネックが見付けたことであるが、ケティが深夜ケルミッシュの部屋へ入ったというのだ。
「どうも、白痴がケルミッシュ君に惚れてるらしいんだ。悪女の、なんとか情とかでケルミッシュ君も、ゆうべは辟易《へきえき》していたらしかったよ。それがね、僕が寝ようとした時だった」
※[#釐の里を牛にしたもの、170−8]牛《ヤク
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