フか。辛酸五年の労苦が水泡《すいほう》に帰したところへ、あらたな力を抱《いだ》いて魔境へゆくケルミッシュをみる、ダネックの胸のなかの切なさ。ところへ、二、三日経って二度目の会見が行われた。
「きょうは、全部のことを包まずお話しようと思うのです」
 相変らず、ケルミッシュを鬱々《うつうつ》としたものが覆っている。二人は前回の影響もあり、白昼幽霊をみる思い。
「私が、なぜヨーロッパに居りながら、あの魔境のなかを知っているか。それにはじつをいうと次のような話があるのです。あなた方は、『宣賓《シュウチョウ》の草漉紙《パピルス》』『メンヤンの草漉紙』という名の漂着物をご存知ですか。一つは揚子江の流れをくだり四川省の宣賓《シュウチョウ》、一つはメーコン河をくだって仏領インドシナのメンヤンへ、それぞれ流れついたものがあったのです。
 それは、古来から何処にもないような草漉紙《パピルス》でした。そしてそれに、チベット文字のようなジャワ文字のような、とにかく、その系統にはちがいないが判読できぬという、じつに異様な文字が連っていました。たいていの学者は、それをなにかの悪戯《いたずら》のように考えたらしいですが、私は、それに執心《しゅうしん》五年、やっと読み解くことができたのです。
 宣賓《シュウチョウ》のには、紅玉《ルビー》光をはなつ峰のさまが書かれてある。それが先日、私がたしかめた紅蓮峰《リム・ボー・チェ》の山巓でした。あの二つの草漉紙は、それぞれ『天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]』の九十九江源地《ナブナテイヨ・ラハード》から流れてきたのです。私は、あの大氷嶺のなかの天母人の文化、魔境の、天険のなかにも桃源境があると思うと、思わず、われ行かんユートピアへと叫んだのです。
 いま、国をうしなったチェコ人の願いは、どこか地図にない国があれば、そこへ往きたい。そして、亡国よという声を聴かずにいたいというのです。折竹さん、これは国運日々にすすむ東亜の盟主、日本のあなたはとうてい分りますまい。いや、あなたは亡国者の無気力の夢と嗤《わら》うでしょう」
 見ると、ケルミッシュの双頬が二筋三筋濡れている。折竹は、しみじみ神国にいるじぶんの幸福を感じたが、案外、おなじチェコ人でもアメリカ育ちの、ダネックは感じないようにみえた。ケルミッシュは、涙に気づいたのか、慌《あわ》てたように亢奮をおさめた。
「それから、『メンヤンの草漉紙《パピルス》』のほうは孔雀王経です。やはりあれは、天母人の大文化を唱ったものです。それには、一、二か所ちがったところがありまして、あに竜の森へゆくを得んや――というところがある。その竜という字が棘蛇《アディ・ナゴ》とかわっているのです」
「棘蛇《アディ・ナゴ》」とダネックがちょっと目を剥《む》いた。
「棘蛇、あの第三紀ごろにいた游蛇類ですか」
「そうです、少くともそう思われますね」と熱したダネックの目を冷ややかにみて言った。
「それで略《ほぼ》、前世紀犀《バルチテリウム》が十万年もあとの、洪積層から出た理由も分ります。要するにそこは、人獣ともに害さぬ仏典どおりの世界でしょう。それこそ、つらい現実からのがれる倔強《くっきょう》な場所です。私は……そうして理想郷を見つけました」
「では、無躾《ぶしつけ》なようですが連れのご婦人は?」と折竹がたまらなくなったように訊いた。しかし、それは、ケルミッシュが続けて言おうとするものだった。
「ケティ……そうです。あれは、じつに珍しい完全な蒙古型癡呆《モンゴロイド》です。蒙古型癡呆とは、お二人には説明も要りますまいが、遠い、遠い昔入りこんだ蒙古人の血が、ぼつりと、数万年後のいま白人種にでるのをいうのです。彼らは、蒙古人のするとおりの真似をする。胡坐《あぐら》をかく、手|掴《づか》みで食い、片手で馬を捌《さば》く。しかし、智能の程度は小学生をでぬ。とマア、こういったもんです。
 でケティは、もとサーカスの支那|驢馬《ろば》乗りでした。そして白痴なもんで虐待《ぎゃくたい》をうけていた。すると、その金髪|碧眼《へきがん》に蒙古的な顔という、奇妙な対照が僕の目をひいたのです。もともと私は、白人文明の破壊性が心から厭で、東洋思想に憧れればこそ、梵語などをやりましたが……。一夕、ケティをよんで飯を食わしたことがあるのです。
 その席上、偶然私がとり出した『宣賓《シュウチョウ》の草漉紙《パピルス》』をみてケティがなにやら音読のようなものを始めた。そこで私は、学校によんで録音をさせました。それから、時経てからまたケティに読ます。しかし、やはりなん度読ましても、おなじように読む」
「なるほど」ダネックが始めて相槌をうった。
「つまり、私は意味は分るが音読ができぬ。ところが、ケティ
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