Aともかくその道をゆくことにした。
二百の荷担ぎ――それに、車や家畜をふくめた長蛇の列が、イギリス駐屯軍の軍用電線にそうて、蟻塚《ありづか》がならぶ広漠たる原野を横ぎってゆく。土の反射と、直射で灼《い》りつくような熱気には、騾《らば》の幌車《ほろぐるま》にいてもマヌエラは眠ってしまう。やがてゆくと、白蟻が草を噛《か》みきったあとがある。兵隊蟻の、襲撃を避けるため不毛の地にしてしまう。白蟻がちかければ沢がちかいのだ。気のせいか、草の丈がだんだんに伸びてゆく。間もなく、第一日の夜営地になる、うつくしい沢地があらわれたのだった。
水際には、蜀葵《たてあおい》やひるがお[#「ひるがお」に傍点]のあいだにアカシヤがたっている。水は、一面に瑠璃《るり》色の百合をうかべ肉色のペリカンが喧《やか》ましい声で群れている。マヌエラは、こんな楽園が荒野のなかにあるのかと、いそいそと水際を飛びあるきはじめた。そこへ、カークが記憶があるといいだした。
「その沢から、あの藪地《ブッシュ》を越えて、ほぼ十マイルもいったところが、ドドの発見地なんだ。おいドド久しぶりで故郷《くに》へかえろうぜ」
しかしドドは、マヌエラのうごきを貪るように追っている。まっ白な脛《すね》、花を摘んで伸びたときのうつくしい均斉。
それを追いもとめる目には通じない意志に、悶《もだ》えるようなかなしそうな色がうかんでいる。
またドドは、ここへ来てから何ものかの呼び声をうけている。ときどき、段状にかさなってゆく中央山脈の、一染の、樹海と思われるあたりをおそろしい目でながめていたり、なにより、葉|摺《ず》れの音にもびくっとなるし、あらゆる野性のものが呼び醒《さ》まされようとしている。それには、座間もカークもとっくから気がついていたのだ。
「ドドは、森の墓場へゆき損って人の手に落ちた。しかし今に、そのとき失った野性が強くなるか、それともマヌエラに惹かれて人の世にとどまるか――いずれはどちらかになると思うよ。しかし、注意は充分しなきァならんね」
探検隊がドドを連れてきたには目的があったのである。それは、さいしょカークと逢ったその場所へゆけば、おそらく故郷を思いだして先頭にたつのではないか。そうして隊が、その跡に続けば人にはわからない、悪魔の尿溜への極秘の道をゆけるのではないか――と。しかし、その試みは失敗に終ってしまった。ドドは、はじめて覚えたマヌエラの魅力に、帰郷の意志などはとっくに失ってしまっている。
その夜、はじめて夜明けまえにライオンの咆吼《ほうこう》を聴いた。藪地のなかで、豹にやられるらしい小野豚《センズ》の声もした。やがて、危険な角蛇《ホーンド・ヴァイパー》[#底本では「ホーンド・ヴァイバー」と誤記]のいる藪地を越えたとき、はや隊のうえにおそろしい不幸が舞い落ちてきた。
それは、抵抗のつよい騾《らば》をのぞくほか、いそいで河中に追いこんだ水牛六頭以外は、野牛も駱駝《らくだ》も馬も羊も、みな毒蠅のツェツェに斃《たお》されたのだ。それからが、文字どおりの難行であった。荷担ぎ《バガジス》[#ルビは「荷担ぎ」にかかる]は、荷が嵩《かさ》んだので値増しを騒ぎだし、土はあかく焼けて亀裂が這《は》い、まさに地の果か地獄のような気がする。灌木《かんぼく》も、その荒野にはところどころにしかない。たまに、喬木《きょうぼく》があっても枯れていて、わずか数発の弾でぼろりと倒れてしまうのである。
しかし、もうそこは山地にちかい。左には、連嶺をぬいて雪冠をいただいている、コンゴのルウェンゾリがみえる。そのしたの、風化した花崗石《グラナイト》のまっ赭《か》な絶壁。そこから、白雲と山陰に刻まれはるばるとひろがっているのが、悪魔の尿溜につづく大樹海なのである。
翌暁、赭《あか》い泥河《でいが》のそばで河馬《かば》の声を聴いた。その、楽器にあるテューバのような音に、マヌエラは里が恋しくなってしまった。
しかしまだ、ここは暗黒アフリカの戸端口《とばくち》にすぎない。きのう見た、藪地のおそろしい棘草《きょくそう》、その密生の間を縫う大毒蜘蛛《タランツラ・マグヌス》――。しかし今日は、いよいよ草は巨《おお》きく樹間はせまり、奥熱地の相が一歩ごとに濃くなってゆくのだ。そして、この三日の行程が四十マイル弱。最後の根拠地となるマコンデ部落にはいったのが、翌日の午《ひる》過ぎだった。
ここから、想定距離二十マイルの山陰に、悪魔の尿溜の東端をみるはずなのである。そしていよいよ、これまで経てきた平穏な旅はおわり、百年の道にも匹敵するその二十マイルへ、悪魔の尿溜攻撃がはじまるのだった。
「とんでもねえ。荷担ぎ《バガジス》[#ルビは「荷担ぎ」にかかる]にゆきァ、死にに往《ゆ》くようなものさァ」
酋長がぐいぐい棕櫚酒《ポムピ》をあおったり印度大麻《ムトクワーネ》を喫ったり、すこぶる上機嫌のなかでもこれだけは聴かなかった。
「マア、論より証拠というだで、ちょっと見てもらいますべえ」
外にでると、連嶺のしたは一面の樹海だ。樹海のはての遠いかなたに、ゆらゆら煙霧のようなものが揺ぎあがっているのがみえる。すると、そばの土人がおそろしそうな声でさけんだ。
「ほうれ、煙が鳴るだよ」
気のせいか、その煙霧がブウンと鳴っているような気がする。やがて、陽が落ちかかると硫黄《いおう》色にかがやいて、すでにそのときは塊雲のように濃くなっていた。煙が鳴る――人煙皆無の大樹海のかなたに、毎日、日暮れちかくになるとこの霧が湧くという。そしてそれ以来、この部落を通過して悪魔の尿溜を衝こうとする、探検隊が一人も帰ってこないのだ。しかし、往《ゆ》けるところまでというとやっと承知して、あくる日、荷担ぎ《バガジス》[#ルビは「荷担ぎ」にかかる]とともに密林をわけはじめたのである。
そこは、虎でもくぐれそうもない蔦葛《つたかずら》の密生で、空気は、マラリヤをふくんでどろっと湿《し》っけている。大蟻、蠍《さそり》、土亀の襲撃を避け猿群を追いながら……、よくマヌエラがゆけたと思うほどの、難行五時間後にやっと視野がひらけた。
その地峡で、軍用電線が鍵の手にまがっている。すなわちその線を前方に伸ばせないものが、あらたに迫っている密林の向うにあるのだろう。案の定、荷担ぎどもは動かなくなってしまった。ゆけ、金をやるぞとあまり語気がつよいと、おう、お嬶ァ《ヤ・ムグリ・ワンゲ》[#ルビは「おう、お嬶ァ」にかかる]――と、なかには泣きだすものが出てくる。
じっさい、ここで一同は戻ろうとしたのだった。探検の熱意は、もう誰にもなく、ただカークの指揮でここまで来ただけでも、一同にとれば大成功といえよう。すると、座間一人がなんと思ったのか、強くゆくことを主張したのである。
殺意が……、この静かな男の面上を覆《おお》い包んでいるのを、そのとき誰も気が付くものはなかった。この機会、最後の密林のなかでヤンを殺《や》ろう。と、身丈ほどもある気根寄生木の障壁、そのしたに溜っているどろりとした朽葉の水。それが、燈火へ飛びこむ蛾の運命となるのも知らず、ともかく、荷担ぎを待たして前方に足をすすめたのである。
そのとき、地峡をとおる蛇を追うために、カークが野火をはなった。その煙りが、娑婆《しゃば》をうつすいちばん最後のものになったのが、隊のなかの誰と誰だろうか。そうして、最後の密林行がはじまったのである。
すると間もなく、樹間がきらきらと光りはじめてきた。森がつきる――とそのとき、どこに潜んでいたのか十四、五人のものが、一同をぐるりと取り囲んでしまった。見なれぬ土人だ。しかも、頭《かしら》だった一人は短いパンツをつけている。
「やあ、今日は《ナマ・サンガ》[#ルビは「やあ、今日は」にかかる]」
カークが進みでて愛想よく挨拶をした。しかし、練達な彼がぐっとつかえ、語尾が消えるように嗄《かす》れてしまったのだ。拳銃が……無気味[#底本では「無意味」と誤植]な銃口をむけている。やがて、顎《あご》でぐいぐい引かれて森をでると、したは、広漠《こうばく》たる盆地になっている。草|葺《ぶ》きが、固まっているなかに、倉庫体のものさえある。
「ここは、どこだね」
カークが一同を怯《おび》えさせまいとするように、言った。すると、その男の口から意外にも、未探地帯《ウンベカント・クライス》――とドイツ語が洩れた。アッと、顔をみると鼻筋《はなすじ》の正しい、色こそ熱射に焼けているが、まぎれもない白人だ。
「驚いたろう。俺は、ここに二十年あまりもいる。万一有事のとき、ナイルの水源を閉塞《へいそく》するためにかくれている。俺はドイツ人でバイエルタールという男だ」
こうして、想像を絶する悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の怪奇のなかへと、運命の手が四人のものを招きよせてゆくのだった。
「猿酒郷《シュシャア・タール》」の一夜
一行の導かれた盆地は谿谷の底といった感じで、赭《あか》い砂岩の絶壁をジグザグにきざみ、遥か下まで石階《いしばし》が続いている。それが、盆地の四方に一か所ずつあって、それ以外の場所は野猿にも登れそうもない。しかし、五人のものは、なんの危害もうけなかった。かえって、怪人バイエルタールは上々のご機嫌だった。
「ここで、白人諸君に会おうとはまったく夢のようだ。どうだ、“Shushah《シュシャア》”という珍しいものを飲《や》らんかね」
といって、怪人は椰子《やし》の殻にどろりとしたものを注いで、
「ねえ君らも、子供の時に猿酒の話を聴いたろう。それが、ここへきてみると、立派に『猿酒《アクワ・シミェ》』といえるものがあるんだよ。これは黒猩々がこっそり作っている。野|葡萄《ぶどう》や、無花果《いちじく》の類を樹洞《ほら》で醗酵させ、それを飲るもんだからああいう浮かれ野郎になっちまうんだ、はっはっはっはっは、それでここを『猿酒郷《シュシャア・タール》』と名付けることにしたんだがね」
そういって尻ごみをする一同にはカッサバ澱粉のパンをすすめ、じぶんは「猿酒《シュシャア》」を呷《あお》り“Dagga《ダッガ》”という、インド大麻に似た麻酔性の葉を煙草代りに喫っている。その両方の酔いがもう大分まわったらしく、バイエルタールはだんだん懆《あや》しくなってきた。半白の髪の様子ではもう五十にちかいだろう。ただ剛気そうな目が、恍《うっと》りとした快酔中にもぎらついている。
やがて、問われるままに、ここへ来た話をしはじめた。
「俺はもと、ドイツ領東アフリカ駐屯軍の一曹長だったが、一九一六年の三月にタンガンイカ湖で敗れた。そのとき俺たちの隊が退路にまよい、北へ北へといってヴィクトア・ニールにでた。それはもう話にならぬような悲惨な旅で、一人減り、二人減りで百人もいた隊が、しまいには六、七人になってしまった。みんな熱病にかかったり、毒蛇にやられてしまった。
それで、とうとうここまで逃げのびると、さすがにイギリス軍もやってこなくなった。きっと、悪魔の尿溜ちかくで斃《や》られちまったと、奴らは考えたにちがいない。しかし俺たちは生きのびていた。まるで、ロビンソン・クルーソーのような生活をして、大戦がいつ終ったかも知らないし、おまけに子まで出来た。はッはッはッは、むろんお袋は土人の女だがね」
こう言ってバイエルタールは、妙にぎらぎらする瞳でマヌエラを見|据《す》えた。魔烟《まえん》のために、大分|呂律《ろれつ》が怪しくなっているし、調子も、うきうきと薄気味悪いほどである。
「ところで、つい一昨年のこと、ここへマコンデから宣教師がふらふらと迷い込んできた。みるとドイツ人なんだ。話がはずんだ。大戦が終ったということもそのとき聴いたし、故国《くに》も変ってしまってナチスという、反共の天下になった事も初めて知った。だが、外地へゆく宣教師には特別の使命がある。スパイもやれば宣伝もやる。彼はそういう種類の男だったのだ。それで、ともかく部落は全滅したということにして、あることない
前へ
次へ
全10ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング