人外魔境
有尾人《ホモ・コウダッス》
小栗虫太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)大|旅行隊《キャラヴァン》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]
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   大魔境「悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]」

 フランスの自動車会社シトロエンの探検隊――。これは、米国地理学協会ほどの大規模なものではないが、とにかく一営利会社としてはなかなかの仕事をしている。最初は、アフリカのサハラ沙漠を牽引車《トラクター》で突破し、続いて、ペルシア、中央アジアを経てペキンまで、無限軌道《キャタピラー》をうごかしていった大|旅行隊《キャラヴァン》をさえだしている。
 さて、その三回目の計画であるが、すでに選定もすみ雨期あけを待つばかりだそうである。それも、これまでのような自動車旅行ではなく、謎と臆測《おくそく》と暗黒のうちにうずもれている、前人未踏の神秘境を指しているのだ。
 では、どこか? そんな土地がまだこの地球上にあるのかと、読者諸君は不審がるだろうが、あるとも大有りである。
「未踏地帯《テラ・インコグニタ》」と、精密な地図にさえ白圏のままに残された個所が、まだ四、五か所はある。それらの土地は、なにか踏みいれば驚天動地的なものがあるだろうと、聴くだに探奇心をそそりたてる神秘境なのである。
 そこでまず、選定会議にのぼった候補地をあげることにしよう。そうして、シトロエンの探検隊がこれからゆこうという場所が、いかにそれらさえも凌《しの》ぐ超絶的な地位にあるかということを、読者諸君にはっきりと知って貰《もら》おう。
[#ここから1字下げ、一つの行が複数行に渡る場合は2行目から2字下げ]
一、南米アマゾン河奥地の、“Rio Folls de Dios《リオ・フォルス・デ・ディオス》”の一帯。
二、北極にちかい、グリーンランドの中央部八千尺の氷河地帯にあるといわれる、“Ser‐mik‐Suah《セルミク・シュアー》”の冥路《よみじ》の国。
三、支那《しな》青海省の“Puspamada《プシパマーダ》”いわゆる金沙河ヒマラヤの巴顔喀喇《パイアンカラ》山脈中の理想郷。
四、?
[#ここで字下げ終わり]
 第一のアマゾン河奥地というのは「神々の狂人」と訳される。ここへは、米国コロンビア大学の薬学部長ラマビー博士一行が探検したが、ついに瘴癘湿熱《しょうれいしつねつ》の腐朽霧気《ガス》地帯から撃退されている。ただ、白骨をのせた巨蓮《ヴィクトリア・レギア》の食肉種が、河面《かわも》を覆うているのが望遠レンズに映ったそうである。
 第二の神秘境は、エスキモー[#底本では「エキスモー」と誤植]土人が狂気のように橇《そり》を駆ってゆくという、グリーンランドの中央部にある邪霊《シュアー》の棲所《すみか》である。そこは、極光《オーロラ》にかがやく八千尺の氷河の峰々。そこには、ピアリーやノルデンスキョルド男でさえもさすがゆきかねたというほどの――氷の奥からふしぎな力を感ずる場所だ。
 第三は、梵語《ぼんご》で花酔境と訳される。そこは、遠くからみれば大乳海を呈し、はいれば、たちこめる花香のなかで生きながら涅槃《ねはん》に入るという、ラマ僧があこがれる理想郷《ユートピア》である。彼らは、そこを「蓮中の宝芯《マニ・バードメ》[#ルビは「蓮中の宝芯」にかかる]」と呼んで登攀《とうはん》をあせるけれど、まだ誰一人として行き着いたものはない。そのうえ、古くは山海経《せんがいきょう》でいう一臂人《いっぴじん》の棲所《すみか》。新しくは、映画の「失われた地平線」の素材の出所とにらむことのできる――まさに西北|辺疆《へんきょう》支那の大秘境といえるのである。
 しかし、以上の三未踏地でさえ足もとにも及ばぬという場所がいったい何処《どこ》にあってなにが隠れているのか、さぞ読者諸君はうずうずとなってくるにちがいない。それは赤道中央アフリカのコンゴ北東部にある。すなわち、コンゴ・バンツウ語でいう“M'lambuwezi《ムラムブウェジ》”訳して「悪魔の尿溜《にょうだめ》」といわれる地帯だ。そこには、まだ人類が一人として見たことのない、巨獣の終焉地《しゅうえんち》「知られざる森の墓場《セブルクルム・ルクジ》[#ルビは「知られざる森の墓場」にかかる]」が、あると伝えられている。
 ではここで、この謎の地域がけっして私のような、伝奇作者のでたらめでないという証拠に、英航空専門誌“Flight《フライト》”に載った講演記事を抜粋してみよう。講演者は、ナイロビ、ムワンザ間のウイルスン航空会社《エアウェーズ》のファーギュスンという操縦士だ。

 私も、悪魔の尿溜攻撃は、数回にわたって試みましたが、結局空からも征服は不可能という惨めな結論を得たばかりです。
 飛行機万能の現代では、航空機の前に未踏地はなし――とまでいわれるのに、なぜ悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]だけには敗退したか? 悪気流か? それも一因でしょう。
 だいたい、悪魔の尿溜の北側は大絶壁になっております。そのうえがゼルズラと呼ばれる流沙地帯なのですが、そこは、上空の空気が非常に稀薄《きはく》で、よく沙漠地方におこる熱真空《ヒート・ヴァキューム》ができるのです。
 そこへ来ると飛行機はもうよろよろと蹌踉《よろめ》きます。しかし、絶壁下にひろがる悪魔の尿溜の湿林は濃稠《のうちょう》な蒸気に覆われてまったく見通しが利きません。その靄《もや》か、沼気《しょうき》か、しらぬ灰色の海に、ときどき異様な斑点があらわれるのです。
 私は思い切って、最後の飛行の時ぐっと下降してみました。ところが、いままで、濃霧《ガス》か沼気かと思っていたのが驚いたことに雲のように群れている微細な昆虫だったのです。横三十マイルにもひろがる悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の上空をぎっしりと埋めて、おそろしい蚊蚋《かぶゆ》の大群が群れているのです。マラリア、デング熱の病原蚊、睡眠病の蠅、毒蚋、ナイフのような吻《くち》の大馬蠅の Tufwao《チュファ》 ああ、その大集雲!
 悪魔の尿溜に、よしんば金鉱が隠されてあろうとダイヤモンドが転がっていようと、あるいは珍奇獣虫がいようと原人がいようとも、この永劫《えいごう》霽《は》れようとも思われない毒の羽虫の雲を除くには、恐らくガスマスクをつけ防虫完備の工兵が、優に一師団をもってしても数年はかかろうかと思われます。

 これが飛行家の観察した悪魔の尿溜だが、つぎに、その奥にあるといわれる巨獣の墓場のことである。おそらく読者諸君も、ゴリラや黒猩々《チンパンジー》などの類人猿や、野象にかぎって死体をみせぬのをご承知であろう。してみると、どこか到底人間には行けぬ密林の奥にでも、彼らの死場所がなければならない。悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]がこの条件にぴったりと嵌《はま》っているわけだが、これも作者の創作と思われては困るから、歴然としたパラッフィン・ヤング卿の赤道アフリカ紀行、「コンゴからナイル河水源《カブト・ニリ》[#ルビは「ナイル河水源」にかかる]へ」のなかの一記事を引用しよう。

 晴天だと、ルウエンゾリ山が好箇の目標になるのだが……、降りだして雨霧《もや》に覆われてからは、ただ足にまかせて密林のなかを彷徨《さまよ》いはじめた。泥濘《ぬかるみ》は、荊棘《とげいばら》、蔦葛《つたかずら》とともに、次第に深くなり、絶えず踊るような足取りで蟻《あり》を避けながら、腰までももぐる野象の足跡に落ちこむ。
 すると、前方約百ヤードほどのあたりに、ぴしぴし枝を折りながらドス赭《あか》いものが動いてゆく。ゴリラだ! 私はこのコンゴの奥ふかくにくるまで、ゴリラには一度も逢わなかったのだ。そこで、ほとんど衝動的に連発銃《ウィンチェスター》をとりあげようとした。すると、土人が一人飛びついて銃をおさえ、
「旦那、あのゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]は恩人でがす。殺すなんて、英人《レコア》の旦那らしくもねえでがすぞ」
 土人は、ゴリラのことを“Soko《ソコ》”という愛称で呼んでいる。私は声を荒らげるよりも呆気《あっけ》にとられて、
「なぜいかんのだ。ゴリラが獲《と》れるなんて千載に一遇ではないか」
「それがです。旦那は、野象《ぞう》の穴へ落ちたとき、磁針《ほうみ》をお壊しなすったので、儂《わし》らは、どっちへどう出たらこの森を抜けられるか、いま途方に暮れているでがす。そこへ、あのゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]が教えてくれたでがすよ。つまり、おらが歩んでゆく先が北に当るぞちゅうて……」
「そんなことが、お前にどうして分るね?」
「あのゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]は、いま森の墓場へ死ににゆこうとしているのだ。それが、わしらにはゆけねえ悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]にあるちゅうだ。ゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]はな、雨が降るとあんなには歩きましねえ。ぼんやりと、手を頭にのせてじっと蹲《しゃが》んでおりますだ。わしらは、幼《ちっ》けなときからゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]をみてるだが、雨んなかを、死神にひかれて歩かせられてゆくような、ゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]にかぎって北へゆかねえものはねえでがす」
 私にはその悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の一言がぴいんと頭へきた。事によったら、いまいる我々の位置が途方もなく深いのではないか。そういえば、密林のはずれにあるマヌイエマの部落で、“Kungo《クンゴー》”といっている蚊蚋《かぶゆ》の大群が、まさに霧《クンゴー》のごとく濛々《もうもう》と立ちこめている。私は、そう分るとぞっと寒気だち、あのゴリラがいなければ死んだかもしれぬと思うと、いま頭に手を置いてのそりのそりと歩いてゆく、墓場への旅人に冥福《めいふく》の十字をきったのである。

 ヤング卿はこうして倉皇《そうこう》と逃げかえって、危く一命を完了した。なまじ進めば、北は瞬時に人を呑《の》む危険な流沙地域。他の三方は、王蛇《ボア》でさえくぐれぬような気根寄生木《きこんやどりぎ》の密生、いわゆる「類人猿棲息地帯《ゴリラスツォーネ》」の大密林。だが、読者諸君、そこへ踏みいって無残にも死に、奇蹟的《きせきてき》にも大記録を残すことのできたわが日本人の医師がいるのだ。その踏破録を、シトロエン文化部の発表に先だって、これから物語風に書き綴《つづ》ろうとするのである。

   有尾人ドドの出現

 葡《ポルトガル》領東アフリカの首都モザンビイクは、いま雨期のまっ盛りにある。
 人が腐る、黒人《くろんぼ》の膚からは白髪のような菌がでる――そういう、雨期特有のおそろしい湿熱が、いまモザンビイクをむんむんと覆いつつんでいる。雨、きょうもこの島町は湯滝のような雨だ。
 毒蠅のマブンガを避けて閉めきっている室のなか、座間の研究所の一室に、アッコルティ先生がいる。イタリア・メドナ大学の有名な動物学の、この先生はなにものを待っているのだろう?![#「?!」は一字] 焦《じ》れきって顎髭《あごひげ》からはポタリポタリと汗をたらし、この※[#「※」は「榲」の「きへん」に代えて「酉」、第3水準1−92−88、11−10]気《うんき》に犬のように喘《あえ》いでいる。
「座間君、カークが僕になにを見せようというのだね。僕が、アッと魂消《たまげ》るようなものというから船を下りたんだが……」
「秘中の秘です。なんとでも、先生のご想像にお任せしましょう」
「じゃ、オカピ[#底本では「オ
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