Jビ」と誤記]か、ゴリラかね」
「はっはっはっは、そんな月並みなものなら、お引き止めはしませんよ」
 座間はただ、さも思わせぶったようににたりにたりと微笑《ほほえ》んでいる。彼は、三十をでたばかりの青年学徒、小柄で、巨《おお》きな顔で、やさしそうな目をしている。しかし、一目肌をみればそれと分るように、座間は純粋の日本人ではない。三分混血児《テルティオ》――アデンの雑貨商だった日本人の父、黒白混血のイタリア人を母とした三つの血が、医専を日本で終えても故国にはとどまらず、はるばる熱地性精神病研究にモザンビイクへきたのであった。
 といるわいるわ、女には舞踏病の静止不能症《ラマーナヤーナ》、男には、マダガスカル特有の“Sarimbavy《サリムバヴィ》”や“Koro《コロ》”そこへ、モザンビイク一の富豪アマーロ・メンドーサの援助があり、ついに研究所をひらき土着の決心をした。そうして、座間は黒人の神となった。生涯を、熱地の狂人にささげ、藪草《やぶくさ》にうずもれようとも、あわれな憑依妄想《ひょういもうそう》から黒人を救いだそうとする――座間は人道主義《ヒューマニズム》の戦士だった。そうして、六年あまりもモザンビイクで暮すうちに、彼はカークという密猟者と親しくなった。次いで、よくカークをつれて奥地へゆく、アッコルティ先生とも知りあいになったわけである。しかしいま、ちょっと南|阿《アフリカ》から寄港した先生を、なぜ座間が引きとめているのか。たしかに、なにかの驚くべきものをアッコルティ先生に、みせようとしているのは事実であるが、一体なんであろう?![#「?!」は一字]
 折からそこへ、扉があいて若い男が姿を現わした。一見、黒白混血児とわかる浅黒い肌、きりっとひき締った精悍《せいかん》そうな面《つら》がまえ、ことに、肢体《したい》の溌剌《はつらつ》さは羚羊《かもしか》のような感じがする。
 ジョジアス・カーク――国籍《せき》は合衆国《アメリカ》だが有名なコンゴ荒し――禁獣を狩っては各地へ売る、白領コンゴのお尋ねものの一人だ。
 カークはお待ち遠さまと微笑んで見せて、右手を扉のそとにだしたまま閾《しきい》から入ってこない。やがて、彼の手にひかれてこの室内へ、まったく予期以上とばかりアッコルティ先生が目をみはる、世にも不思議な生物がはいってきたのだ。まったく、そのときの先生の驚きようといったらなかった。一眼鏡《モノクル》の、目をあけたままポカンと口をあけ、やっと経《た》ってから正気がついたように、
「おう、有尾人《ホモ・コウダッス》!」と唸《うな》るように呟《つぶや》いた。
 それは、全身を覆う暗褐色の毛、丈は四フィートあるかなしかで子供のようであり、さらに一尺ほどの尾が薦骨《せんこつ》のあたりからでている。といって、骨格からみれば人間というほかはないのだ。しかし、頭の鉢が低く斜めに殺《そ》げ、さらに眉のある上眼窩弓《じょうがんかきゅう》がたかい。鼻は扁平で鼻孔は大、それに下顎骨《かがっこつ》が異常な発達をしている。仔細《しさい》に見るまでもなく男性なのである。
 それはまあいいとして、この有尾人からは、山羊《やぎ》くさいといわれる黒人の臭《にお》いの、おそらく数倍かと思われるような堪《たま》らない体臭が、むんむん湿熱にむれて発散されてくる。アッコルティ先生は、ハンカチで鼻を覆いながらじっと目を据《す》えた。
「ふむ、温和《おとな》しいらしい。ときに、君らには懐《なつ》いているかね」
「ええ、そりゃよく」とカークが煙草の輪を吐きながら答えた。
「すると、これを獲《と》ってから大分になるんだね」
「いいえ、此処《ここ》へきてまだ七日ばかりですよ。第一ドドが、僕の手に落ちてから二週間とはなりません」
「ドドとは……」
「僕らがつけた、この紳士の名前です」
「はっはっはっは、じゃ、有尾人ドド氏というわけだね」
 とアッコルティ先生が笑っているなかにも、なにやら解《げ》せぬような色が瞳のなかにうごいている。野生のもの、しかも智能のたかい猿人的獣類が、わずか十日か二週間でこうも懐《なつ》くはずがあるだろうか。
「ときに、君はこのドド氏をどこで獲ったのだね」
「場所ですか」とカークは思わせぶったようにすぐには答えず、まず、ドドを捕まえるにいたった一仍《いちぶ》始終を語りはじめた。
「とにかく、ドドが懐いたというのは、最初の出がよかったからですよ。僕は先生のお説の、ゴリラ定期鬱狂説を利用して、今度こそ六尺もある成獣を捕えてやろうと思って出かけたのです」
 アッコルティ先生は、前年度の学会にゴリラ定期鬱狂説を発表して、斯界《しかい》に大センセーションをまき起した。
 ゴリラには、憂鬱病《メランコリー》と恐怖症《ホビー》が周期的にきて、その時期がいちばん狂暴になりやすいという。そして苦悶《くもん》が募《つの》って来て堪《た》えられなくなると“Hyraceum《ヒラセウム》”を甜《な》めにきて緩和するというのだ。ヒラセウムとは、岩狸《ハイラックス》が尿所へする尿の水分が、蒸発した残りのねばねばした粘液で、カークはこのヒラセウムのある樹洞《ほら》のまえに、陥穽《わな》を仕掛けようとしたのであった。
「僕は陥穽《わな》をにらんで四昼夜も頑張っていました。すると、五日目の昼になってとうとうやって来ました。それが、なん歳ぐらいのものか藪の密生で分りませんが、とにかく、ぴしぴし枝を折りながら樹洞《ほら》のほうへやってくる。やがて、えらい音がしてどっと土煙があがりました。しめた、生きたゴリラなら十万ドルもんだと、さっと土人と一緒に勢いよく飛びだすと……どうでしょう、たしかに落ちたはずのゴリラの真正面に向きあってしまったのです。しかし、すぐ相手は四足で逃げ出しましたがね」
「ほほ、陥穽《わな》に落ちたのがそのゴリラでないとすると……ドドかね」
「そうなんです、しかし、覗《のぞ》きこんだときはさすが驚きましたよ」
「そうだろう。君みたいな……、コンゴ野獣の親戚《しんせき》でも、これには驚くだろう。しかし、最初のうちは抵抗しただろうが」
「それがしないのです。じつに、ひどい苺果痘《フラムベジア》にかかっていたのです。僕は、なにより可愛想になってきて、さっそく皮膚に水銀|膏《こう》をなすってやると、大分落ちついてきました。もう以前のように幹へからだを擦《こす》ったり、泥を手につけて掻《か》きむしるようなことはしません。ただ、目をほそめて僕の手にある、水銀膏の罐《かん》をものほしそうにながめているのです。それで僕はこいつは物になると思って、その罐を囮《おとり》に手近かの部落まで、とうとうドドをなにもせずにひっ張ってきたのです」
「なるほど、さすがはジャングルの名人芸だね」
 思わずアッコルティ先生は感嘆の声を洩《も》らした。
「それから、ドドの苺果痘《フラムベジア》のほうは座間君の手ですっかり癒《なお》りました。ですから、僕と座間君にはむろんのこと、この研究所の出資者メンドーサ氏の令嬢、マヌエラさんにも非常に懐《なつ》いているんです」
 ちょうどそこへ、扉がわずかに開いて、うつくしい顔がのぞいた。今も今とて噂《うわさ》したマヌエラ嬢だった。彼女は、真白な洗いたての敷布《シーツ》のようにどこからどこまで清潔な感じのする娘だ。座間とは婚約の仲、また人道愛の仕事の上でもかたく結びついている。
「先生が、どういう風にドドを観察なさるか、伺いにあがりましたわ」
 マヌエラの明るい声の調子が、アッコルティ先生の気分を爽《さわ》やかにしたとみえて、先生はさっそく観察の発表をはじめた。
 はじめに尾をさして、いわゆる薦骨奇形の軟尾体《ワイシェ・シュワンツ》だといった。つぎに、全身を覆う密毛がしらべられ、その一本立ての三本くらいを、黒猩々《チンパンジー》特有の排列と説明する。さらに、ドドの後頭部が大部薄くなっているのが、「黒猩々的禿頭《アントロボビテークス・カルヴス》」そっくりながら……耳も、円形の黒猩々耳《チンパンジー・オーレン》。つぎに、眉がある部分の上眼窩弓がたかいのも、黒猩々特有のものだと先生はいう。そうなって、次第にドドは人間黒猩々間の、雑交児ということに証明されそうになってきた。
 すると、先生が俄然《がぜん》言葉を改め、ドドの頭上に片手を置いていったのである。
「これがね、いわゆる小頭《ミクロケファレン》というやつだ。つまり、頭骨の発達がなく脳量がない。したがって、智能の度が低いという原人骨同様だ」
 原人という言葉にどっと部屋中が騒がしくなった。誰よりも、マヌエラがまっ先に質問をした。
「じゃ、ドドが原人なんでございますね。とうに、数百万年もまえに死滅しているはずの……」
「とにかく、人間黒猩々の雑交児という説に、これはむろん並行していえると思うね。いや、わしは断言しよう。古来、いかなる蛮人にもこれほど下等な頭骨はない――と」
 生きている原人、血肉をもった原始人骨――まさに自然界の一大驚異といわなければならない。
 では、ドドはどうして生まれ、どこから来……、また純粋の人間とすればどうして数百万年も、固有のかたちが変えられずに伝わったのだろうか。
 でまず、ドドを人獣の児として考えてみよう。そうすると、なぜ群居をはなれて彷徨《さまよ》っていたのだろうか。捨てられたか……追放されたか……? あるいは、ずうっと幼少時から孤独でいたとすれば野獣や、王蛇《ボア》が横行する密林でぬけぬけ生きられるわけはない。また、故郷のジャングルをしたう郷愁といったものも、ドドには気振《けぶ》りにさえもみえないのだ。
 郷愁を感じない、野生動物がどこにあるだろうか。つかまって、環境がちがったときはどんな生物でも、食物をとらなかったりして郷愁をあらわすものだが、それがドドには不思議にもないのだった。
 すると、カークをふり向いてアッコルティ先生がいった。
「まだ捕獲した場所を聴いてなかったね。いったい、このドドをどこで見つけたんだ?」
「それが、ほぼ東経二十八度北緯四度のあたりです。英《イギリス》領スーダンと白《ベルギー》領コンゴの境、……イツーリの類人猿棲息地帯《ゴリラスツォーネ》から北東へ百キロ、『悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]』の魔所へは三十マイル程度でしょう」
 悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]――それを聴くと同時に、一座はしいんとなってしまった。ただ、屋根をうつ大雨の音だけが轟《とどろ》いている。
「そうか、悪魔の尿溜のそばか――」
 アッコルティ先生もここまで来ると、あっさり断念《あきら》めたように投げやりな口調になった。ドドを、悪魔の尿溜と組合せることは、もう科学者の領域ではなかったからである。
 それから先生は、ドドのために急遽《きゅうきょ》帰国する決意をし、あたふたと時計をみながら帰っていった。そのあと、座間とカークが疲れたような目で、ぼんやりと屋並みをながめている。
 砂糖菓子のような回教寺院《モスク》の屋根も港の檣群《しょうぐん》も、ゆらゆら雨脚のむこうでいびつな鏡のようにゆれている。そのとき、仏マダガスカル航空《フレンチ・マダガスカルサービス》[#ルビは「仏マダガスカル航空」にかかる]の郵便機が、雨靄《もや》をくぐりくぐり低空をとおってゆく気配。座間は、むっくり体をおこして言った。
「君、あれなんだがね」
「あれって? 飛行機がどうしたというんだね」
「つまり、ドドのことなんだ。ドドは、飛行機をみてもけっして恐がらないのだぜ。かえって、嬉しそうな目付きで、奇声さえあげる。そうかといって、『悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]』の近傍に航空路はないよ。英帝国航空《インペリアル・エアウェーズ》も、フランスの亜弗利加航空《エール・アフリカ》も、それぞれ地図のうえで半度以上も隔っている。奇怪だ。猿人、原人といわれるドドが飛行機に驚かない。それでいて、王蛇《ボア》や豹をみるとひどく恐がる」
「きっ
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