ニ『悪魔の尿溜』探検の飛行機でもみたんだろうよ。しかし、五度や六度で、馴れるとは思われないな」
 太古以前の、原始生活をしていたはずのドドが飛行機に驚かない――これはまさに不思議以上だ。やはりこれはアッコルティ先生が一度疑ったように、ドドは一種の作りものではないのか。そう思ってながめると、とうてい想像もできないようなおそろしい秘密が、ドドの肉体に隠されているように思われて、しみじみそら恐しくさえなる。
 暗くなってきた。すると、雨靄《もや》のむこうから、ボーッと汽笛がひびいてくる。E・D・S《エルダー・デムスター》[#ルビは「E・D・S」にかかる]の沿岸船ベンガジ丸が、いまモザンビイクにはいってきたのだ。しかしその船は、やがて悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]へ一同を駆《か》りやろうとする、運命の使者を乗りこませていたのである。

   善玉悪玉嬢《ミス・ジキル・ハイド》

 ベンガジ丸には、ヤン・ベデーツというベルギー青年が乗りこんでいた。
 これは、マヌエラの父の旧友の息子で、マヌエラとは筒井筒《つついづつ》の仲だが、うま[#「うま」に傍点]があわぬというのか、マヌエラは非常に彼を嫌っていた。それに、どこへいっても腰の落ちつかぬ男で、先ごろまで、エジプトのミスル航空会社で副操縦士《コ・パイロット》をしていたが、そこでも、喧嘩をしたらしくモザンビイクに帰ってきたのである。マヌエラの父が親代りで、ヤンの父の遺産を保管しているからだった。
 ところがヤン・ベデーツがくると、研究所の空気がきゅうに乱れてきた。それはヤンが患者を汚ながったり虐待《ぎゃくたい》するばかりか、座間やカークには、この混血児めと蔑視的な態度を見せるからだった。
「なにか、ありましたんでしょう?」
 今日も今日とて案じ顔に、座間の胸のボタンをいじりながらマヌエラが、やさしい上目使いをして訊ねた。
「さっき、ヤンがたいへんな目をして、ハアハアいいながら水を飲んでいましたよ。それからカークさんは、拳固のへんに辛子膏をなすっていらっしゃるんですの」
「じゃ、やったんでしょう。カークは、いつかやってやると言ってましたからね。ジャングルの主が野牛を殴りとばすような勢いでやったんじゃ、ヤン君もさぞ痛かったでしょう。しかし、ヤン君の身にもなれば……」
「え? なんのことですの」
 マヌエラは聞き咎《とが》めた。
「つまり、三年ぶりでここに帰ってくると、あなたには思いがけない僕という人間ができている。八つ当りしたくなるのも無理はないでしょうよ」
 しかし、マヌエラはかなしそうな目をして、
「あの人がじぶん勝手な僻《ひが》みでどういう考え方をしようと、それにあたしたちまでひき摺《ず》られるわけはありません。ねえ、ヤンはヤン、こっちはこっちですわ」
 と、香りのいい髪を嗅《か》がすように、座間の胸のなかへ頬をうずめる。
「あたしは、あなたの日本の血を尊敬してますわ」
 まるで素直な子供のような言い方であった。座間には、それが弱い電気のように、快よく響いてくる。すると、マヌエラがふと話題を変え、
「そうそう、この週の報告をしなきァなりませんわ。でも、ドドは相変らずですの」
 と、引き受けたドド馴育《じゅんいく》の結果を話しだした。
「火がわかったのが三週まえでしたね。手工はどうでしょう?」
「まだ、そんなにお急《せ》きになったって……。でも、先生から言いつけられたことは、ちゃんちゃんとしてますわ。ちかごろは、いったいドドがどんな機嫌でいるか――つまり、ドドの感情表出も見ています」
「はあ、それがわかりますかね」
「ええ、第一ドドは笑われるのを嫌います。それに、色も知っているし記憶力もたしかです。また、相当な学習能力もあります。それで、いつもあたしが使っている水仙《すいせん》色の封筒ね、あれを、構内のポストに入れるのを昨日あたりから覚えましたの」
「ほう、そりゃお手柄だ、それから、先生がいわれた餌料《じりょう》による実験は?」
 それによって、ドドが原人か人獣児であるか、その点がはっきりと分るはずだった。
 もちろん、これはアッコルティ先生の指図で、難しく言えば「皮膚色素の移行」の研究である。たとえば、果実を主食とする黒人にたいし、その量を減らすと皮膚の色が淡くなる。また淡黒色のホッテントットに常食の乳を減らすと、その色がしだいに濃くなってくる。ことに、その変化がはやいのが類人猿で、つまり、ドドがたべる生果の量を減らして、その効果をいち早くみようというのだった。
 マヌエラは、餌料のことを聞くと、かるく口を尖《とが》らせて、
「いけませんわ。ドドは人間ですわ。科学ってなんて残酷なんでしょう。やれ、ドドに蛋白《たんぱく》を与えろ、もし黒猩々《チンパンジー》の血があればてきめんに衰弱するとか、食べものを減らして皮膚の色をみろとか……、そんなこと、それは動物にすることだと思いますわ。ドドはあくまで人間で、あたくしの友だちです」
 ふかい、同情の念とかたい信念とで、マヌエラがきっぱりと言い切った。彼女の、骨にまで浸みたカトリックの教育は、よくこうした場合、一歩も退かせないのだ。座間は浄《きよ》らかな百合《ゆり》の花をみるように、しばしマヌエラの顔を恍惚《こうこつ》とながめていた。
 まったく、ドドはマヌエラのそばを一瞬の間もはなれようとしない。いないと、いまも聴えるように悲しそうな叫び声をたてる。
 お嬢さん、いまに魅入られますよ――と、カークは冗談に言ったけれど、まったく二人の親密さにはそう言いたくなる。
 ところが、その夜不思議な出来事がおこった。
 夜になると、温度はいくぶん下がるけれど、その倦怠《けんたい》さと発汗の気味わるさ。湿気の暈《かさ》が電灯の灯をとりまいている。
 こういう時には、ドドの唸《うな》り声さえもちがってくる。じつに、誰でも平常でなくなるような、蒸し暑い、いやな晩であった。
 その夕、座間はヤンと激論を戦わした。それは、ドドを売れば十万やそこらにはなるだろうから、それにヤンの資産をくわえて研究所を拡張し、名実兼ねた総合病院にしようというのだった。つまり、座間がしている社会施設を、ヤンが営利化しようというのである。
 しかし、これには、なによりマヌエラが真向から反対した。それでも、ヤンは嘲笑《せせらわら》って、なアにお父さんを説き伏せて晩にきますよと、洒々《しゃあしゃあ》と自信ありげに帰っていったのである。そうして、研究所に一つの危機がくることになった。
 と、その夜、座間が寝つかれないので、書斎へゆこうとしたとき、ドドの部屋のまえをとおると、鍵がおりてない。そこへ、患者面会人がやすむ部屋のほうで、微かにごそりごそりと音がする。まさか、ドドが逃げるわけはないがと、そっとその部屋の扉をひらいたときだった。思わず、あッと叫びそうなのを辛《から》くも抑えたほど、座間ははげしい駭《おどろ》きにうたれた。
 そこにいたのは……ドドではない。さっきの憎しみを忘れたように、ヤンとマヌエラが抱かんばかりに向き合っている。座間はまず、じぶんの目を疑った。続いて、耳までも疑わねばならぬような会話を聞いた。
「あたしを愛してくれますか」
 ちょっと、漁色にすさんだヤンでもふるえた声で言うと、
「ええ、あたしも愛してくれますか」とマヌエラも切なそうに呼吸《いき》をする。
 あのマヌエラ、昼間のマヌエラがなんという変りかた?![#「?!」は一字]
 丁度このとき、おおきな伸びをしながらカークが降りてきた。すると、ヤンはいきなりマヌエラを突きはなし、手をふりながら向うの扉から消えてしまった。座間は、この世界がまっ暗になったような気持で、ただその場に茫然《ぼうぜん》と立ち竦《すく》んでいた。
 と、ヤンの姿が消えたと思ったとき、またも座間をあっと言わせるようなことが起った。
 それは、清浄|無垢《むく》なマヌエラとも思われない……、また淑女たらずとも普通の町家の女でも、よもや口にはしまいと思われるような醜猥《しゅうわい》な事柄を、まるでじぶん自身に言いきかすかのように、マヌエラがべらべらと喋《しゃべ》りはじめたからだ。
 マヌエラ! 断じて幽霊ではない、真実のマヌエラだ。昼間の、灼かれようとも挫《くじ》けない人道主義《ヒューマニズム》の天使が、夜は、想像もされない別貌をしてあらわれたのだ。どっちだ? どっちが本当のマヌエラかと、座間は白痴のように頭を振り振り廊下へでていった。
 と出会いがしらに、ドドの手を引いてカークがやってきた。
「君、馴育《じゅんいく》掛りのお嬢さんへようくいわなきァ駄目だぜ。鍵を忘れたもんだから勝手にでちまって、それに、此奴《こいつ》までがえらく亢奮《こうふん》している」
「どこにいたんだ?」
「患者面会人室の廊下の羽目際だ。なにか、こいつが亢奮《こうふん》するようなことがあったらしい」
 なるほど、これまでのドドには決してみられなかった、一種異様な激情のさまを呈している。犬歯を歯齦《はぐき》まで鉤《かぎ》のようにむきだして、瞳は充血で金色にひかっている。そして、ひくい唸り声を絶《き》れ絶《ぎ》れにたてながら、今にもかくれた野性がむんずと起きそうな、カークでさえハッと手をひくような有様だった。
 それからドドをいれて扉に鍵をおろすと、座間はカークを促《うな》がしながら戸外へ出ていった。やがて本土とのあいだが二町ばかりにせまっている、有名なマラガシュの入江に出た。
 湯のような雨……くらい潮が……ぽうっと燐光にひかる波頭をよせてくる。そして砂上の、ひいたあとは星月夜のようにうつくしい。だが座間は、どうしてカークとこんなところへ来たのかじぶんでも分らなかった。
「どうしたい、いやに悄《しょ》んぼりして……。まさか、猫の死骸に念仏をいいにきたんじゃないだろうが」
 カークは、いつもとちがって底気味悪さを湛《たた》えている座間を景気づけるように言った。すると、座間はいきなりふり向いて、
「おい、僕にドドを売っちゃくれまいか」
「えッ、ドドを売れって?![#「?!」は一字]」カークも少からず驚いて、
「なんのためだ。僕の手から買ってどうするつもりだ」
 思わず見上げる座間の眉宇間《びうかん》には、サッと一閃の殺伐の気がかすめてゆく。殺してやる! マヌエラがあの魔性のものに魅込まれたのでなければ、ああも奇怪な二重人格をあらわすわけはない。と、知らず識らず、この入江の腐肉の気にさそわれてきた座間である。
 カークは早くも、それを悟ったと見え改まったような調子で、
「じゃ、その話を真剣にとるがね。すると、まず、売る売らないに先だって、決めておきたいことがある。それは、ドドが獣か人間かということだ。売っていい動物か、売ってはならない人か……サア座間君どっちだろう」
 言われて、座間の咽喉《のど》がぐびっと鳴った。しかし、ちょっと顫《ふる》えただけでなにも言えなかった。
「人身売買……奴隷売買を……いまこの現代に口にする奴があるかね。それとも、ドドを人獣の児として――その場合を君はどう考える? 混血だ、おなじことだよ。ドドが黒猩々《チンパンジー》と人のまざりなら僕は、半黒《ミュラート》、君は三分混血児《テルティオ》だ。僕らが白人以下のものとして蔑視されるのも、君が、半分の獣血をみとめて、ドドを売れというのも……」
 そのカークの言葉を身に滲《し》むように聴きながら、座間はくらい海の滅入るような潮騒《しおさい》とともに、ひそかに咽《むせ》びはじめていたのだ。

       *

 その一夜は寝床のなかで転々としながら、ついにまんじりともしなかった。マヌエラと、ドドの奇怪な行動を考えあぐめばあぐむほど、ますます頭が冴《さ》えて眠れるどころではなかった。
 マヌエラのあれは、「ジキル博士とハイド氏」のように二重人格なのか――と、ますます糸のもつれが深まるなかで、座間は追及の鬼のようになっていた。それとも、ドドに同情を深めすぎた結果か? といって淑女を
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