タ《けが》すような想像はしなかったが、もしやあるかも知れないドドの魔性が、恋情とともにマヌエラに絡《から》みついたのではなかろうか。
あのときドドは羽目を隔てていたが、それを透して、なかのマヌエラを遠くから動かす――そんなことは、土人の魔法医者《ウィッチ・ドクター》なら朝飯まえの仕事だ。まして、飛行機をみても驚かぬようなドドには、なにか底しれぬものがある。
マヌエラ自身の素質か、ドドの魔性かと、廻り燈籠のような疑問が考え疲れたあげくふと消えて、座間は思いがけもしなかった大きな穴が、じぶんの足下に口を開いているのに気がついた。ああ、二重人格でもなければ、ドドの魔性でもない。たんなるマヌエラの裏切りなのだ。ヤンがきてその純白の肌を見、振返って座間の黒々とした皮膚をみたとき、マヌエラは一途に座間が嫌いになったのだ。売女《ばいた》、売女め! とかきむしるような言葉を、寝床のなかで座間は咆《ほ》えたてていた。やがて夜があけた。雨が暁の微光に油のように光りはじめてきた。
その翌夜、カークを書斎に呼びいれて、座間は気負ったように話しはじめた。
「君、僕は旅行しようと思う」
「よかろう、君はきのうの晩ちょっと変だったが、きっと、過労のせいだと思う。どこへゆくね? スイスかウィーンかね」
「いや、この大陸のずうっと内核《なか》へゆきたいんだ。コンゴのイツーリからずうっと北へ――僕は、未踏地帯《テラ・インコグニタ》にゆく」
「え?」
「ぼくは『悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]』へゆくんだ!」
ナイルの水源閉塞者
カークは唖然《あぜん》として座間を見詰めていたが、やがて、
「よし、聴こう。しかし、命がけの観光なんてないからね。むろん、目的もあり見込みもあってのことだろう」
「そうだ。ときにカーク、君はコンゴへいり込んで禁獣を狩る。それで、いちばん金になったときはどのくらいなもんだ」
「マア、五万ドルかね。オカピを獲ったときは、そのくらいになったが」
「ゴリラは?」
「あれは獲れん。あいつは、遅鈍《のそ》ついているようだがそりゃ狡猾《こうかつ》で、おまけに残忍ときてるんだから始末がわるいよ。いっそ、猩々《オラン・ウータン》のような教授《プロフェッサー》然としたやつか、黒猩々《チンパンジー》みたいな社交家ならいいがね、どうも、厭世主義者《ペシミスト》とか懐疑主義者というやつは、猟師にはいちばん扱いにくいんだよ。しかし、射殺しただけでも二、三万にはなるだろう」
「じゃ、そのゴリラが……、無数と、死体をならべている渓谷があったとしたら……。ざっと、世界の大学を六百とみて、それに、骨格一つずつ売ったにしても、千万長者にはなれる。だが、それは君の仕事だ。僕の目的は別のほうにある」
「冗談いうな」カークはからからと嗤《わら》いはじめた。
「本気で聴いてりゃいい気になって、そんなとこが、もしあるなら俺が逃すもんか」
「あるとも」座間は自信気たっぷりにいう。
「僕は、友情にかけ君の勇気を信じていう。ところで、君は、ヘロドトスという歴史家を知っているかね」
「むろん、みたことはないが名だけは知っている。ギリシアに、昔いたという博識《ものしり》だろう」
「そうだ。ところが、そのヘロドトスが書いたなかに、ナイル河の水源についてこういうことがある」
ヘロドトスが、ナイルの水源について次のような話を、エジプトサイスの長官からミネルバで聴いたことがある。
ナイルの水源《カブト・ニリ》[#ルビは「ナイルの水源」にかかる]は、クロフィス及びメンフィスという、シェーネとエレファンティス間にある二つの山巓――呼んで半月の山脈《モンス・ルーヌラ》[#ルビは「半月の山脈」にかかる]という渓谷の奥にある。その半月の山脈には“Colc《コルク》”という湖があり、バメティクス王が、綱を数千“ogye《オギエ》”も垂れたが底に届かずとある。つまり、ナイルの水源は、その奥にあるというのだ。
さらにそこには、「盤根の沼《パルス・ラディコスス》[#ルビは「盤根の沼」にかかる]」「知られざる森の墓場《セプルクルム・ルクジ》[#ルビは「知られざる森の墓場」にかかる][#底本7−10、63−13、69−6ではセブルクルムと表記。ここ30−10での表記は誤りか]」があり、矮人《ピクミエン》が棲み有尾人《ホモ・コウダッス》がいる。そしてそれが、場所というのが悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]で、棲んでいる矮小有尾人がすなわちドドとなる――座間がこう結論したのである。
「なるほど、しかしその、むずかしいラテン語を説明してもらおうじゃないか」
「それはね、『盤根の沼《パルス・ラディコスス》[#ルビは「盤根の沼」にかかる]』というのは、錯綜《さくそう》たる根の沼だ。沼が盤根錯綜たる、叢林のしたにあるという意味だ。それから『知られざる森の墓場《セプルクルム・ルクジ》[#ルビは「知られざる森の墓場」にかかる][#底本7−10、63−13、69−6ではセブルクルムと表記。ここ30−15での表記は誤りか]』というのは、巨獣の終焉地《しゅうえんち》だ。死体をみせぬ象や類人猿がそこにきて眠るという。ねえカーク、どっちにしても、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]じゃないか。しかも、有尾人ドドの故郷だ」
そういえば、カークもそれに似たような土人の伝説を聴いたことがある。ヌグンベという、ドド発見地の近傍の部落だが、そこから悪魔の尿溜の方向にあたる北西かたの山腹に、“Leo《レオ》”という奥しれぬ洞窟があるのだ。――そこが、人類発祥の地だという。つまり、太古のとき動物とともに、彼らの祖先がその洞から出てきたというのだ。
まったく、そういえば数えきれぬほどあるではないか。こういう、無稽な伝説が探検によって裏書きされ、また、そういうものがしばしば因となって、探検欲をうごかし大発見をさせたことが!
ここに……、いまその洞窟のかなたには悪魔の尿溜がある。しかもそこが、半獣児ドドの発生地に目されている。
「どうだ君、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]なら何億年も処女でいられるよ。そこでは、動物も、植物も原始地球のままだ。獣交も、殺戮《さつりく》も自然律にすぎない。そこで僕は、アッコルティ先生の説をもう一歩すすめるよ。つまり……ドドは、そこにいる原始人と親和的な、黒猩々との雑交児だろうということだ。第一、親を有尾人とするのには、尾がある。それ以外は、外見、智能といいそっくりの黒猩々《チンパンジー》だ」
カークは、すっかり圧倒されてしょんぼりと瞬いている。座間の、ちがった人のような不思議な情熱を、どこに、こんな静かな男にこんなものがあったのだろうと……、相手の唇を呆然とながめていたのである。
「それから」と座間はすべるように続けてゆく。
「なぜドドが郷愁を感じないかということが、僕にはやっと分ったような気がするよ。それはね、苺果痘《フラムベジア》をわずらって死期を知ったのだ。そして、死ぬために森の墓場へいった。そうなると、もうじぶんは帰れない……、これから、知らない世界へゆかねばならぬということが、彼らには本能的にわかる。そこへ、ドドは道をちがえたのだ。そして、森の墓場へはゆけず、君の手に落ちた……。だから君にも抵抗をしない……。こんな人里へきても郷愁を感じない……。ねえカーク、僕はその墓場へ、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]へゆきたいんだよ」
原人、類人猿、象もそうだろう? 彼らが、死期をさとって森の墓場へゆこうとするときは、まったく本能的に帰郷の意志がなくなるという――座間の明快な推測であった。
しかし、そういう座間が、淋《さび》しそうに微笑んでいる。恋の空骸《むくろ》が、死をもとめるかわりに未踏地をえらんだのだろう。やがて、カークとのあいだにかたい盟約が成りたった。
ところが、そのことをマヌエラに話すと、意外にも彼女が一緒にゆこうと言いだしたのだ。犠牲が、ねがう幸福のほうに、マヌエラを向けようとするとき、意外にも、それを蹴って敢然とゆくという。座間はすっかり分らなくなってしまった。
間もなく、マヌエラのあとを蛇のように追う、ヤンを加えドドを連れて、まずさいしょの根拠地となるコンデロガへ発ったのである。
「ちかごろ、七郎はどうしちまったのよ」
話があると、マスカの実が地上に垂れさがっている陰へ、マヌエラが座間を呼びこんだ。雨期あけの灼《い》りつけるような直射のしたは、影はすべてうす紫に、日向《ひなた》の赭土は絵具のように生々しい。それがコンデロガを発つ探検第一日の前日だった。
マヌエラは、胸に飛びこみたい衝動を抑えているように、ぱちぱちと伏目で瞬いている。
「どうもしませんよ。僕は、相変らずの僕ですが」
「いいえ、ちがっています。まえは、そんな冷ややかな七郎ではありませんでした。女は、そんな点にはいちばん敏感ですのよ。ねえ、なにか、お気に障《さわ》るようなことがあって?」
すると、座間がまた迷うのである。それまでは、ヤンとあの夜の狂態はなんだと、彼はマヌエラに瞋恚《しんい》の念を燃やしていた。それが、こうして見ている、初々しさ……たどたどしさ。なんだかじぶんのほうが思い過しのような、座間にはそんな感じさえしてくる。
あれ以後、ヤンとマヌエラのあいだは非常に外々《よそよそ》しいものだった。少なくとも、ああしたことは一度だけらしく、翌日は、ヤンが根城にしようとした総合病院化を、父にすがって一蹴してしまったのである。これにはヤンも座間と同様おどろいたことだろう。しかし、彼は一夜の甘味をけっして忘れるような男ではない。どんなに白眼視され相手にされなくても、またのチャンスを狙いながら探検隊をはなれなかったのである。
まったくマヌエラには、座間もヤンもおなじ考えにちがいない。不思議な女だ、二重人格かドドの所業かと……、ヤンが、鉄面皮を発揮して探検隊に加われば、座間はあれこれと非常に迷いながらも頑固な壁をマヌエラに立てつづけているのだった。
ところで、この探検の費用はマヌエラの父がだし、それも座間が疲労を癒《いや》す物見遊山としか考えていない。
カークも、大湿林の咆吼《ほうこう》をよぶ狂風を感じはするが……、死を賭《と》して、不侵地悪魔の尿溜をきわめようなどとは、夢にもさらさら思わないことだった。そしてまた、マヌエラも、おなじように考えていた。ただ、しばらく仕事から離れればと……、ちかごろ座間の様子がじつに変であるだけに、どうかこの旅行で静養してくれと、じっさい悪魔の尿溜のことなど最初から頭になかった。しかも、座間とてもおなじように変ってきている。
それは、さいしょカークと二人だけと思ったところへ、意外にもマヌエラが加わるし、ヤンが追ってくる。そうして、絶えずマヌエラの美しさをみていると、この探検は、じつに悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]攻撃にあるのではなく、ヤンを除く、天与のまたとない機会のように思われてきた。密林、鰐《わに》のいる河、野獣、毒蛇。ここでは、下手人に代ってくれるあらゆるものが豊富だ。
と、その考えが、やはりヤンにもあるらしい。そうして、二人は胸に敵意をひめながら、どうやらさいしょの意図とはちがってしまった探検隊が、数日後はコンデロガを発ったのである。
ところで、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]攻撃の進路であるが、それは、西方、南方の境界部はコンゴの「類人猿棲息地帯《ゴリラスツォーネ》」、北は、危険な流沙地域である大絶壁にかこまれ、わずか東のほうに密林帯が横たわっている。ところが、これまでの数回の探検隊とも、そこへはいると同時に消息を絶ってしまうのだ。まったく、木乃伊《ミイラ》取りが木乃伊というあの言葉のように、あとからあとからと続いても一人の生還者もない。しかし一同は
前へ
次へ
全10ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング