アと大嘘をこき混ぜて、マコンデの部落へいい触れさした。つまり、ここが行ってはならない危険な場所になったということを、帰りしなに触れさしたわけだよ。しかし、俺とその男のあいだには、かたい約束ができていた。いいか、俺はどんな蛮地にいようとも、立派なドイツ国民として行動して見せるのだ」
この今様ロビンソン・クルーソーがなにを言いだすのだろうと、一同は興味深く顔をのぞき込んだが、斉《ひと》しくのっぴきならぬ危険が起りそうな予感を覚えた。バイエルタールは、そしらぬ顔つきでお喋りを続ける。
「それはね、万一事ある場合、たとえば英仏相手の戦いがおこった場合、まず青《ブルー》と黒《ブラック》ニールの水源をエチオピアでとめてしまう。それから、俺は白《ホワイト》ニールにでて上流を閉塞する。と、どうなる?![#「?!」は一字] エジプトの心臓ナイル河の水が、底をみせて涸々《からから》に乾《ひ》あがるだろう。むろん灌漑水《かんがいすい》が不足して飢饉《ききん》がおこる。舟行が駄目になるから交通は杜絶する。そうなって、澎湃《ほうはい》とおこってくる反乱の勢いを、ミスルの財閥や英軍がどうふせぐだろうか」
折から天空低く爆音が聞えた。毎夕、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]からくる昆虫群をふせぐために、石鹸石《ソープストーン》、その他の粉霧を上空から撒《ま》くのだという。それがマコンデからみえる「鳴る霧」の正体だったのだ。ドドが飛行機をみても驚かぬわけは、おそらくここの近くにいたために、機影を知っていたせいであろうと察せられた。
それから、その飛行機のことをバイエルタールに訊《たず》ねると……英領ケニアの守備隊で同僚を殺し、偵察機一台をさらってここへ逃げこんできた英人飛行士で、その後、縦断鉄道測量隊をヤンブレで襲い、当分防虫剤やガソリンには不自由しないと、バイエルタールは鼻高々の説明だった。
その間も彼の目は、寝ているドドの背に置かれたマヌエラの手のうえを、まるで甜《な》め廻すように這《は》いずっているのだが、どうやらそれも、ただの酔いのせいではなさそうに思われてきた。と突然、彼は割れるような哄笑《こうしょう》をはじめた。
「分ったろう、俺はナイルの閉塞者なんだ。はっはっはっはっは、君らは妙な顔をして、俺を島流しの狂人とでも思ってるだろうが、それもよかろう。しかし、ここには武器もあり爆薬もある! それに、月に一度は連絡機がくる。サヴォイア・マルケッティの大輸送機が、北アフリカ航空《ノルド・アフリカ・アヴィアチオーネ》[#ルビは「北アフリカ航空」にかかる]の線から飛んでくる。倉庫もある、飛行場もあれば格納庫もある。全部、巧妙な迷彩で上空からわからんようになっている」
探検の一同は、聴いているまにだんだんと蒼《あお》ざめてきた。今宵にも、命がなくなるかもしれぬおそろしい危機が、いま次第に切迫しつつあるのを知ったのである。おそらく、これまでの探検隊に生還者がなかったのも、ここでバイエルタールに殺されたからにちがいない。かほどの、国の興廃にもかかわる大機密を明して、無事に帰すはずはない。カークをはじめ一人も声がなく、喪《ほう》けて死人のようになってしまった。
ところが、座間一人だけはさすが精神医だけに、ほかの人たちとは観察がちがっていた。バイエルタールの言葉を聞いていると、ときどき他のことを急にいいだすような、意想|奔逸《ほんいつ》とみられるところが少なくない。これは精神病者特有の一徴候なのだ。
普通の人間でもこんな隔絶境に半月もいたら少々の嘘にも判別《みわけ》がつかなくなるだろう。それが、バイエルタールのは二十と数年――宣教師のでたらめをまことと信ずるのも無理はない。そのうえ、彼はインド大麻で頭脳を痺《しび》らせているのだ。
けれど今となっては、それがじぶんたちには狂人《きちがい》の刃物も同様。もう、どうあがこうにも……、彼の狂気の犠牲となるより他はなさそうに思われる。
防虫組織や飛行機などは、いかにも神秘境と背中合せの近代文明という感じだが、ナイルの閉塞、イタリア機の連絡とは、じつに華やかながら実体のない、狂人バイエルタールの極光《オーロラ》のような幻想だ。いやいま、この猿酒宮殿《シュシャア・パラスト》に倨然《きょぜん》といる彼は、そのじつ、悪魔のような牧師の舌上におどらされている、あわれなお人よしの痴愚者なんだと、座間だけはそう信じていたのである。
やがてドドをまじえた一行五人は小屋に押しこめられた。もっとも、番人もつけられず鍵もおろされない。武器も弾薬も依然として手にある。これはバイエルタールの手抜かりというわけではなく、四か所の石階《いしばし》に厳重な守りがあるからだ。
アフリカ奥地の夜、山地の冷気が絶望とともに濃くなってゆく。蟇《がま》と蟋蟀《こおろぎ》が鳴くもの憂いなかで、ときどき鬣狗《ハイエナ》がとおい森で吠《ほ》えている。その、森閑の夜がこの世の最後かと思うと、誰一人口をきくものもない。ときどき君が言いだしたばかりにこんな目に逢ったのだと、ヤンが座間を恨めしげに見るだけであった。
と時が経って暁がたがちかいころ、座間にとっては思いがけぬ事件が降って湧《わ》いた。一見大して奇もないようだったが、重大な意味があった。それはとつぜん、マヌエラが気懶《けだる》そうな声で、なにやら独《ひと》り言のようなものをドイツ語で言いはじめたのであった。
「明日、牝《めす》をのぞいた残りを全部|殺《や》るというんだ。人道的な方法というからには、アカスガの毒を使うだろう」
驚いたことに、男のような言葉だ。調子も、抑揚がなく朗読のようである。そして、これがなかでもいちばん奇怪なことだが、いまマヌエラが喋《しゃべ》っているドイツ語を、当の本人が少しも知らないのである。知らない外国語を流暢《りゅうちょう》に喋る――そんなことがと、一時は耳を疑いながらまえへ廻って、座間はマヌエラをじっと見つめはじめた。
「マヌエラ、どうしたんだ、確《しっ》かりおし!」
しかしマヌエラの目は、狂わしげなものを映してぎょろりと据《すわ》っている。ひょっとすると心痛のあまり気が可怪《おか》しくなったのかもしれない。その間も、なおも譫言《うわごと》は続いてゆく。
「逃げやしないかな」
「大丈夫、武器は取りあげてないから、まさかと思っているだろう。第一、石階《いしばし》には番人がいるし……そこを逃げても、マコンデ方面は網目のようだからな」
こうした気味の悪い独語が杜絶えると、闇の鬼気が、死の刻がせまるなかでマヌエラだけをつつんでしまう。彼女は、ちょっと間を置くとまたはじめた。
「水牛小屋の地下道は分りっこねえんだ。何時だ? 三時だとすりゃ、あと二時間だが」
一体マヌエラは誰の言葉を真似ているのだろう? 座間は微動だもせず冷静な目で、じっとマヌエラをながめていたが、思わず……この時首をふった。すると、おなじようにマヌエラも首を振る。ハッとした座間が今度は試みに唇をとがらした。とまた、マヌエラがおなじ動作を繰りかえす。とたんに、座間はわッとマヌエラを抱きしめた。やがて、むせび泣きとともに二人の頬の合せ目を、涙が小滝のようにながれてゆくのだった。
「ああ君?![#「?!」は一字]」
カークはじぶんとともに冷静だった座間が、近づく死の刻に取乱してしまったのだと思った。しかし座間はすこしも腕をゆるめずに、まるで恋情のありったけを吐きだしてしまうように、泣いたり笑ったりもう手のつけようもない狂乱振りだった。が、座間は狂ったのではなかった。彼は、悦びと悲しみの大渦巻きのなかで、こんなことを絶《き》れ絶《ぎ》れに叫んでいた。
(“Latah《ラター》”だ。マヌエラにはマレー女の血がある“Latah《ラター》”は、マレー女特有の遺伝病、発作的神経病だ。ああ、いますべてが分ったぞ。あの夜の、ヤンとのあの狂態の因《もと》も……、いま、マヌエラの発作が偶然われわれを救ってくれることも……)
“Latah《ラター》”は、さいしょ軽微な発作が生理的異状期におこる。そのときは、じぶんがなにをしているかが明白《はっきり》と分っていながら、どうにも目のまえの人間の言葉を真似たくなり、またその人の動作をそのまま繰りかえす――つまり、反響言語《エヒョーラリー》、返響運動《エヒョーキネジー》というのがおこる。してみると、いつかのあの夜も、と――座間には次々へと浮んでくるのだ。
あのとき……、ヤンが、あたしを愛してくれますか――と小声で言うと、ちょうど、それそっくりの言葉をマヌエラが繰りかえした。また、抱こうと腕をかけると彼女もおなじ動作をした。それから淑女らしくもない醜猥なひとり言も、思えば醜言症《コプロラリー》という症状の一つなのだ。ああ、マヌエラにはマレーの血があるのだ。おそらく、マレー人系統のマダガスカル人の血が、何代かまえに混入したのであろう。そしていま、それがいく代か経ってマヌエラにあらわれたのだ。
血の禍《わざわ》い、やはりマヌエラも純粋の白人ではない。しかし、いま一人もものを言わないこの小屋のなかで、どうして知りもせぬドイツ語で喋ったのだろう。それが、反響言語《エヒョーラリー》のじつに奇怪なところである。遠くて、普通の耳には聴えぬような音も、異常に鋭くなった発作時の、聴覚には響いてくるのである。
今しも、バイエルタールの部下二人が靴音《くつおと》立てて、小屋のまえを通り過ぎていったところを見ると、マヌエラは、彼らの会話を口真似したに違いない。それでは水牛小屋の地下道というのこそ、唯一のまぎれのない逃げ道だ。
こうして、マヌエラをめぐるあらゆる疑惑が解けた。まるでハイド氏のような二重人格も、怪奇をおもわせたドドの魅魍《みもう》も、さらに、いま五人のものが浮びあがろうとすることも、畢竟《ひっきょう》マヌエラに可憐な狂気があるからだった。座間は、息をふきかえした愛情のはげしさに泣きながら、もう一刻も猶予《ゆうよ》できないことに気がついた。
「諸君、助かるかもしれん。とにかくすぐに水牛小屋へゆこう」
まず、醜言症を聴かせぬためマヌエラには猿轡《さるぐつわ》をし、ドドを連れて、そっと一同が小屋を忍びでたのである。そこには、地下からうねうねと上へのびて東方の絶壁上へでる、やっと這ってゆけるほどの地下道があった。一同はこうして、猿酒郷《シュシャア・タール》を命からがら抜けでたのである。
やがて樹海の線に暁がはじまったころ、おそらく追手のかかるマコンデとは反対に、いよいよ、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]へと近付く密林のなかへ、心ならずも逃げこんで行くのだった。
雪崩《なだ》れる大地
密林はいよいよふかく暗くなって行った。大懶獣草《メガテリウム・グラス》の犢《こうし》ほどの葉や、スパイクのような棘《とげ》をつけた大|蔦葛《つたかずら》の密生が、鬱蒼《うっそう》と天日をへだてる樹葉の辺りまで伸びている。また、その葉陰《はかげ》に倨然《きょぜん》とわだかまっている、大|蛸《だこ》のような巨木の根。そのうえ、無数に垂れさがっている気根寄生木は、柵のようにからまり、瘤《こぶ》のように結ばれて、まさに自然界の驚異ともいう大障壁をなしているのだった。しかも、下はどろどろの沢地、脛《すね》までもぐるなかには角毒蛇《ホーンド・ヴァイパー》がいる。
蜈蚣《むかで》の、腕ほどもあるのがバサリと落ちて来たり、絶えず傘《かさ》にあたる雨のような音をたてて山|蛭《ひる》が血を吸おうと襲ってくる。まったくバイエルタールの魔手をのがれたのは一時だけのことで、またあらたな絶望が一同を苦しめはじめた。
「殺してよ、座間」
マヌエラが、しまいにはそんなことを言いだした。そして、虚《うつ》ろな、笑いをげらげらとやってみたり、ときどき嫌いなヤンへにッと流眄《ながしめ》を送ったりする。彼女もだんだん、正気を失いはじめてきたのだ。
さすがにカークだけ
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