セけだった。衰弱のために、もう動くのさえどうにもならぬらしい。私が脈を見てもぼんやりと委せているだけだ。しかし、これは森の墓場へきたという本能だけではなく、先天的にゴリラというやつは体質性の憂鬱症《メランコリア》なのである。つまり、「沈鬱になり易い異常的傾向《アブノルメ・テンデンツ・デプレショネン》[#ルビは「沈鬱になり易い異常的傾向」にかかる]」がある。ああ、また鉛筆の芯《しん》が折れた。もう私は、これを書いてはいられない。
ここで早く、あなたへの愛とカークへの友情と、やがて私が死ぬだろうということを書かねばならない。私は、ながらく肉食ばかりしたため壊血病にかかった。いまは、歯齦《はぐき》の出血が、日増しにひどくなってゆく。そうだ! 病の因となった青果類はむろんのこと、この悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]には一点の緑すらもないのだ。昆虫霧で、日中さえ薄暮のように暗い。その下は、ただ鹹沢《しおざわ》の結晶が瘡《かさ》のようにみえるだけで、旧根樹《ニティルダ・アンティクス》の枯根がぼうぼうと覆うている。
その根をゴリラのように伝わることが出来ればいいが、人間で、おまけに今の私にはそんな体力はない。まったくのところ、どこかの一隅に有尾人がいるかもしれない。またどこかに、象の腐屍がごろごろ転っていて、それを食う群虫がその昆虫霧かもしれない。しかし、この一局部にいてはなにも分らないのだ。ただ、ここが森の墓場であり、荒廃と天地万物が死を囁《ささや》いてくる、場所であることだけは知っている。
私はきょうめずらしく鵜※[#「※」は「古+月+鳥」、68−7]《がらんちょう》をつかまえた。よくあなたがドドを馴らして、木のポストに入れさせていた封筒のことを思い出したのだ。私はそれで、この手紙を書いてその封筒にいれ、鵜※[#「※」は「古+月+鳥」、68−9]《がらんちょう》に結びつけて放そうと思う。運よく……、そんな機会は万一にもあるまいが、もし、あなたの手に入ればそれは愛の力だ。
私は、この墓場に埋まる最初の人間として……悪魔の尿溜にいり込んだはじめての男として……また、ゴリラと親和した唯一の人として……ことに、あなたへの献身をいちばん誇りとする……。
いま、午後だが大雷雨になってきた。もう一日、この手紙を続けて、鵜※[#「※」は「古+月+鳥」、68−14]《がらんちょう》を放すのを延ばそう。
マヌエラ、この一日延ばしたことがたいへんな禍《わざわい》となった。といって、いま私が死のうとしているのではない。私が、いままで心を向けていたあらゆるものの価値が、まるで、どうしたことか感ぜられなくなってしまったのだ。あなたのことも、カークのこともこの悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]征服も、いっさい過去のものが塵《ちり》のように些細《ささい》にみえてきた。
どうしたことだろう。じぶんでそうであってはならないと心を励ましても、その力がまるで咒縛《じゅばく》されているように、すうっと抜けてしまうのだ。きっとマヌエラ、これは魂を悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]に奪われたのだろう。人間という動物であるものが森の墓場へきて、恋人をおもったり娑婆《しゃば》を恋しがったりすることが、そもそも悪魔の尿溜の神さまにはお気に召さないのかもしれない。戒律《タブー》だ。それを破った私は当然罰せられる。それで今日から、「知られざる森の墓場《セブルクルム・ルクジ》[#ルビは「知られざる森の墓場」にかかる]」の掟《おきて》に従うことになった。いや、おそろしい力に従わせられたのだ。
今朝、ゴリラがちょうど二週間目に死んだ。
私は、鹹沢《しおざわ》のへりにいて洞窟にいなかったが、そこへ妙な、聴きなれない音が絶《き》れ絶《ぎ》れにひびいてくる。それが、洞窟のほうなのでさっそく戻ると、ゴリラがまさに死のうとする手でじぶんの胸をうち、かたわらの石をうっては異様な拍子を奏でているのだ。私もゴリラに音楽があるという噂は聴いていたけれど、その音は、「いま遠い、遠いところへゆく」と叫んでいるようなもの悲しげなものだった。私は、とたんに哀憐の情にたまらなくなってきて、ゴリラの最期を見護《みと》ろうと膝に抱えたとき、意外な、軽さにすうっと抱きあげてしまった。
まったく、力のあまりというのが、その時のことだろう。ながい、絶食と塩分の枯痩《こそう》とで、そのゴリラは骨と皮になっていた。それにしても、この私とてもおなじように痩《や》せ、まして、壊血病になやみながらこの老巨獣を、抱きあげられたことはなんといっても不思議であった。私は、ここにいる間に森の人になったのではないか。痩せても二百ポンド以上のものを軽々
前へ
次へ
全23ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング