ホそれ以外にはない。私は、類人猿の死骸に目をつけた。
 それからのことは、婦人であるあなたには詳述を避ける。とにかく、ここへ死にに来て相当の期間生きていたものには、体内にほとんど脂肪の層がない。ともあれ……やつらを燃やしてみることにした。
 さいしょ、口腔《くち》に固形|酒精《アルコール》をいれて、それに火をつけた。まもなく火が脳のほうへまわって眼球が燃えだした。ごうっと、二つの窩《あな》がオレンジ色の火を吹きはじめた。洞内が、なんともいえない美しさに染《にじ》んでゆくのだ。裂け目や条痕の影が一時に浮きあがり、そこに氷河裂罅《クレヴァス》のような微妙な青い色がよどんでいる。淡紅色《ときいろ》の胎内……、そこを這《は》いずる無数の青|蚯蚓《みみず》。しかし、死骸は枯れきっていてなんの腥《なまぐさ》さもない。
 私は、そうして暖まり、肉も喰った。しかし肉は、枯痩《こそう》のせいか革を噛むように不味《まず》かった。マヌエラ、私がなにをしようと許してくれるだろうね。
 ところが、三つほど燃やして四つ目をひきだそうとしたとき、ふいに天井が岩盤のように墜落した。雪崩れが、洞内の各所におこって濛《ぼう》っと暗くなった。それが薄らぐと崩壊場所の奥のほうがぼうっと明るんでいる――穴だ。それから、紆余曲折《うよきょくせつ》をたどって入口のへんにまで出た。そこには、最近のものらしい四、五匹が死んでいる。マヌエラ、私は洞をでてはじめて外の空気を吸った。いよいよ私は悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]のなかにでたのだ。
 夜だった。空には、濛気《もうき》の濃い層をとおして赭《あか》色にみえる月が、すばらしく、大きな暈《かさ》をつけてどんよりとかかっている。私はいまだに、これほど超自然な不思議な光輝をみたことはない。中天にぼやっとした散光をにじませ、その光はあっても地上はまっ暗なのだ。
 すると、この森閑とした死の境域へ、どこか遠くでしている咆哮《ほうこう》が聴えてきた。それが、近くもならず遠くもならず、じつにもの悲しげにいつまでも続いている。と、それから間もなくのこと、ようやく、暁ちかい光がはじまろうとするところ、ふいに私の目のまえにまっ黒なものが現われた。ぎょっとして、それを見つめながら、じりじりと後退《あとじさ》っていった。
 マヌエラ、なんだと思うね。カークほどの身の丈で、お父さんより肥っていて、片手を頭にのせてずしりずしりと歩いてくる。時には、両肢《りょうあし》をかがめその長い手で、地上を掃《は》きながら疾風のようにはしる――ゴリラだ。私は、それと分るとぞっと寒気がし、顎《あご》ががくがくとなり、膝がくずれそうになった。私は懸命に洞の中へ飛びこみ、最前の穴らしい窪みをみつけて隠れた。が、その洞穴《ほらあな》は、浅くゆき詰っている。なお悪いことに、そのゴリラが穴のまえで蹲《うずくま》ったのだ。やがて、夜が明けたとき、視線が打衝《ぶつか》った。私は、あの傀偉《かいい》な手の一撃でつぶされただろうか。
 マヌエラ、私は暫《しばら》くしてから嗤《わら》いはじめたのだよ。じぶんながら、なんという迂闊《うかつ》ものだろうと思った。なんのために、そのゴリラが森の墓場へきたか忘れていたのだ。ゴリラはさいしょ、私をみたとき低く唸ったが、ただ見るだけで、なんの手だしもしない。
 七尺あまり、頭はほとんど白髪でよほどの齢らしい。つまり、老衰で森の墓場へきたのだと、私はやっとそう思った。野獣がここへくるときは闘争心は失せ、なにより彼らを狂暴にする恐怖心を感じぬらしい。そして食物もとらず餓えながら、静かに死の道にむかってゆくのだ。マヌエラ、ここで私は冥路《よみじ》の友を得たのだ。
 Soko《ソコ》――と、やがてそのゴリラをそっと呼んでみた。この“Soko《ソコ》”というのはコンゴの土語で、むしろ彼らにたいする愛称だ。それから、Wakhe《ワケ》,Wakhe《ワケ》――と、檻《おり》のゴリラへする呼声をいっても、その老獣はふり向きもしなかった。
 ただ遠くで、家族らしい悲しげな咆哮が聴えると――ほとんどそれが、四昼夜もひっきりなく続いたのだが――そのときは惹《ひ》かれたようにちょっと耳をたて、しかもそれも、ただ所作だけでなんの表情にもならない。そうして、私とゴリラと二人の生活が、十数日間にわたって無言のまま続いた。私は、同棲者になんの関心も示さない、こんな素っ気ない男をいまだにみたことはない。
 さて、もう鉛筆もほとんど尽きようとしている。あとは、簡略にして終りまで書こうと思う。
 それから、私は精神医としていかにゴリラを観察したか、特にアッコルティ先生に伝えて欲しいと思う。それからも、毎日ゴリラはその場所を動かず、ただ懶《だる》そうに私をみる
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