A殺されるものが生きる一つの偶然が潜んでいたのだ。彼は、水はなくとも砂が動くことは知らなかった。徐々に、彼のからだが前方にはこばれてゆき、やがて、あっという間もなく地上から消えてしまったのである。
 それなり、座間の姿はけっして現われてこなかった。ただわずかな間に消えてしまったことが、まるで秘境「悪魔の尿溜」の呪《のろい》のように、マヌエラさえ思うよりほかになかった。

   遂に「悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]」敗る

 座間は死に、残る二人は助けられた。
 マヌエラは、疲労と悲嘆のあげく床についてしまったが、それから一月後に一通の手紙が舞いこんできた。上封は、ヌヤングウェ駐在英軍測量部とあり、ひらくとなかにはもう一通の封書がある。それは、泥によごれ血にまみれてはいたが、目を疑うほどの驚きは、愛《いと》しいマヌエラへ、シチロウ、ザマより――とあるのだ。マヌエラは指先を震わせて封を切った。

 マヌエラよ、天罰が私にくだった。あなたを、このうえ“Latah《ラター》”で苦しませるのは忍びぬと思いそっとあの断崖からつき落そうとしたとき……私は、砂流《サンド・リヴァ》に運ばれて地中に落ちこんだ。それは地中より湧《わ》きいで地中に消える暗黒河であった。
 なん時間後か、なん日後か、とにかく私は闇のなかで目をさました。おそろしい冷気、冥路《よみじ》というのはこれかなと思ったほどだ。そしてどこかに、滝があるような水流の轟《とどろ》きがする。しかし、まだ私が死んでないということは、やがてからだを動かそうとしたときはっきりと分った。節々が灼けるように疼《うず》くのだ。私は、それでもやっと起きあがった。手さぐりで、からだを探ってみると雑嚢《ざつのう》がある。なかには、ライターもあり固形アルコールもある。――ああ、この、短い鉛筆でくわしくは書けない。
 そこで、服地をすこし破いて固形アルコールで燃すと、ぐるりがぼんやり分ってきた。何処もかもが真白にみえる。目を疑った。すると、天井から雪のようなものが落ちてきた。甜《な》めて見ると唇につうんと辛味を感じた。それでやっと分った。私は砂川《サンド・リヴァ》から岩塩の層に落ちこんだのだ。地下水が岩塩を溶かしてつくる塩の洞窟だ。マヌエラ、あなたには想像もできまい。まるで月世界の山脈か砂丘のような起伏、石筍《せきじゅん》、天井からの無数の乳房、それが、光をうけるとパッと雪のようにかがやく。浄《きよ》らかな……まったくこんな中で死ねれば有難いと思った。
 畝《うね》もある。なかには氷罅《クレヴァス》もある。ときどき、雹《ひょう》のようなのがばらばらっと降ったり、粉塩を小滝のように浴びることがある。と、ふとそばの壁をみたとき、思わず私ははっと呼吸《いき》をとめた。そこには巨《おお》きな粗毛だらけのまっ黒な手が、私を掴《つか》もうとするようにぬうっと突きでている。
 マヌエラ、これが悪魔の尿溜の神秘「知られざる森の墓場《セブルクルム・ルクジ》[#ルビは「知られざる森の墓場」にかかる]」だ。
 類人猿が、じぶんを埋葬にくる悲愁の終焉地《しゅうえんち》だと思うと、私はその壁を無性にかき崩《くず》した。すると、その響きにつれてどっと雪崩《なだ》れる。ああマヌエラ、塩を雪のようにかぶって起きあがったとき、一つ二つ、臨終そのままの姿であるいは立ち、あるいは蹲《うずく》まり、あるいは腕を曲げ、ゴリラや黒猩々が浮き彫りのように現われてくる。まったく絶えざる水蝕でかわるこの洞窟の中では、これが数百年あるいはなん千年まえのものか。ともかく、塩にうずまってすこしも腐らずに、今日まで原形を保ってきたのだ。ああ、私は悪魔の尿溜に入りこんで、最奥の神秘をみた全人類中のたった一人の男だ。
 そうして、間もなく死ぬだろうじぶんさえも忘れ、ただ人間が自然に対してした最大の反逆を、歓喜のなかで溶けるように味わっていたのだ。
 それから、滝は地底へと落ちている。それを知って、私は非常に落胆した。なぜなら、もしその地下水が絶壁へでていれば、そこから、悪魔の尿溜の大観を窺《うかが》うことができるし、また位置が低ければあるいは出ることもできよう。しかし駄目だ。私は底から盛りあがってくる暗黒の咆哮《ほうこう》に、いよいよ出口がなく、いま岩塩の壁で密閉されていることを悟った。事実も、絶えず洞窟の形が水蝕で変っているらしい。
 すると私は、ここの低温度がひじょうに気になってきた。獣類ならともかく人間は、うかうかすると凍死する危険がある。まったく、アフリカ奥地の夏に凍え死ぬなんて、ここが地下数十尺の場所とはいえ皮肉なもんだと思った。
 すると、そこへ一つの考えがうかんできた。それはいうのもじつに厭なことだが、いま暖をとるものといえ
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