ニのせ、その両手をみたときは泥のような酔心地だった。
ゴリラを抱いた。と、すべて人間社会にあるものが微細にみえてきた。個人も功績も恋愛などというものも、すべて吹けば飛ぶ塵のようにしか考えられなくなった。マヌエラ、これが悪魔の尿溜の墓の掟なのだ。獣は野性をうしない、人は人性をわすれる――私も死にゆく巨獣となんのちがいがあろう。
こうして、私は、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]を征服し、そうして征服されたのだ。だがマヌエラ、まだ私はさようならだけはいえるよ。
座間の手記は、ここで終っていた。悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の妖気《ようき》に、森の掟に従わされ、よしんば生きていても遠い他界の人だ。不思議とマヌエラには一滴の涙もでなかった。
彼女はなかに、もう一通同封されている英軍測量部の手紙をとりあげた。
敬愛するお嬢さま――同封の書信を、お送りするについて、一|奇譚《きたん》を申しあげねばなりません。それは、この発信地のヌヤングウェのポスト下には、同封の書信を握りしめた異様な骸骨が横たわっていたのです。それは、丈が四フィートばかりで、人間とも、類人猿ともつかぬ不思議なものでありました。当地は、おそろしい蟻の繁殖地で、朝の死体は夕には、肉はおろか骨の髄まで食われてしまうのです。ただ、その骸骨が不思議なものであっただけに、その旨を御興がてらに申し添えて置きます。
ドドだ! マヌエラは、大声でさけんだ。
ドドは、ヤンと一緒に陥没地へ落ちたが、やはり生きていたのだ。そうして、座間が放った鵜※[#「※」は「古+月+鳥」、71−5]《がらんちょう》をとらえ、肢に結びつけてある封筒をみたとき、急にあの訓練を思いだしてヌヤングウェのポストへいったのだ。そしてそのあいだの、百マイルの道に精も根もつき、やっと辿《たど》りついて昏倒《こんとう》したところを残忍な蟻どもに喰われたのだろう。
彼女は、草原の熱風に吹きさらされる骨を思い、座間の怪奇を絶した異常経験には、一滴も、流さなかった涙をすうと滴らした。
それから、ドドの血がついた封筒に唇をあて、人間よりも、高貴な純真なドドのために、心からの親しさでそっと十字を印したのである。
底本:「人外魔境」角川ホラー文庫、角川書店
1995(平成7)年1月10日初版発行
底本の親本:「人外魔境」角川文庫、角川書店
1978(昭和53)年6月10日発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:藤真新一
校正:鈴木厚司
2001年7月20日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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