謔、な、ゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]にかぎって北へゆかねえものはねえでがす」
 私にはその悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の一言がぴいんと頭へきた。事によったら、いまいる我々の位置が途方もなく深いのではないか。そういえば、密林のはずれにあるマヌイエマの部落で、“Kungo《クンゴー》”といっている蚊蚋《かぶゆ》の大群が、まさに霧《クンゴー》のごとく濛々《もうもう》と立ちこめている。私は、そう分るとぞっと寒気だち、あのゴリラがいなければ死んだかもしれぬと思うと、いま頭に手を置いてのそりのそりと歩いてゆく、墓場への旅人に冥福《めいふく》の十字をきったのである。

 ヤング卿はこうして倉皇《そうこう》と逃げかえって、危く一命を完了した。なまじ進めば、北は瞬時に人を呑《の》む危険な流沙地域。他の三方は、王蛇《ボア》でさえくぐれぬような気根寄生木《きこんやどりぎ》の密生、いわゆる「類人猿棲息地帯《ゴリラスツォーネ》」の大密林。だが、読者諸君、そこへ踏みいって無残にも死に、奇蹟的《きせきてき》にも大記録を残すことのできたわが日本人の医師がいるのだ。その踏破録を、シトロエン文化部の発表に先だって、これから物語風に書き綴《つづ》ろうとするのである。

   有尾人ドドの出現

 葡《ポルトガル》領東アフリカの首都モザンビイクは、いま雨期のまっ盛りにある。
 人が腐る、黒人《くろんぼ》の膚からは白髪のような菌がでる――そういう、雨期特有のおそろしい湿熱が、いまモザンビイクをむんむんと覆いつつんでいる。雨、きょうもこの島町は湯滝のような雨だ。
 毒蠅のマブンガを避けて閉めきっている室のなか、座間の研究所の一室に、アッコルティ先生がいる。イタリア・メドナ大学の有名な動物学の、この先生はなにものを待っているのだろう?![#「?!」は一字] 焦《じ》れきって顎髭《あごひげ》からはポタリポタリと汗をたらし、この※[#「※」は「榲」の「きへん」に代えて「酉」、第3水準1−92−88、11−10]気《うんき》に犬のように喘《あえ》いでいる。
「座間君、カークが僕になにを見せようというのだね。僕が、アッと魂消《たまげ》るようなものというから船を下りたんだが……」
「秘中の秘です。なんとでも、先生のご想像にお任せしましょう」
「じゃ、オカピ[#底本では「オカビ」と誤記]か、ゴリラかね」
「はっはっはっは、そんな月並みなものなら、お引き止めはしませんよ」
 座間はただ、さも思わせぶったようににたりにたりと微笑《ほほえ》んでいる。彼は、三十をでたばかりの青年学徒、小柄で、巨《おお》きな顔で、やさしそうな目をしている。しかし、一目肌をみればそれと分るように、座間は純粋の日本人ではない。三分混血児《テルティオ》――アデンの雑貨商だった日本人の父、黒白混血のイタリア人を母とした三つの血が、医専を日本で終えても故国にはとどまらず、はるばる熱地性精神病研究にモザンビイクへきたのであった。
 といるわいるわ、女には舞踏病の静止不能症《ラマーナヤーナ》、男には、マダガスカル特有の“Sarimbavy《サリムバヴィ》”や“Koro《コロ》”そこへ、モザンビイク一の富豪アマーロ・メンドーサの援助があり、ついに研究所をひらき土着の決心をした。そうして、座間は黒人の神となった。生涯を、熱地の狂人にささげ、藪草《やぶくさ》にうずもれようとも、あわれな憑依妄想《ひょういもうそう》から黒人を救いだそうとする――座間は人道主義《ヒューマニズム》の戦士だった。そうして、六年あまりもモザンビイクで暮すうちに、彼はカークという密猟者と親しくなった。次いで、よくカークをつれて奥地へゆく、アッコルティ先生とも知りあいになったわけである。しかしいま、ちょっと南|阿《アフリカ》から寄港した先生を、なぜ座間が引きとめているのか。たしかに、なにかの驚くべきものをアッコルティ先生に、みせようとしているのは事実であるが、一体なんであろう?![#「?!」は一字]
 折からそこへ、扉があいて若い男が姿を現わした。一見、黒白混血児とわかる浅黒い肌、きりっとひき締った精悍《せいかん》そうな面《つら》がまえ、ことに、肢体《したい》の溌剌《はつらつ》さは羚羊《かもしか》のような感じがする。
 ジョジアス・カーク――国籍《せき》は合衆国《アメリカ》だが有名なコンゴ荒し――禁獣を狩っては各地へ売る、白領コンゴのお尋ねものの一人だ。
 カークはお待ち遠さまと微笑んで見せて、右手を扉のそとにだしたまま閾《しきい》から入ってこない。やがて、彼の手にひかれてこの室内へ、まったく予期以上とばかりアッコルティ先生が目をみはる、世にも不思議な生物がはいってきたのだ。まったく、そのときの先生の驚きようと
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