イ粋してみよう。講演者は、ナイロビ、ムワンザ間のウイルスン航空会社《エアウェーズ》のファーギュスンという操縦士だ。

 私も、悪魔の尿溜攻撃は、数回にわたって試みましたが、結局空からも征服は不可能という惨めな結論を得たばかりです。
 飛行機万能の現代では、航空機の前に未踏地はなし――とまでいわれるのに、なぜ悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]だけには敗退したか? 悪気流か? それも一因でしょう。
 だいたい、悪魔の尿溜の北側は大絶壁になっております。そのうえがゼルズラと呼ばれる流沙地帯なのですが、そこは、上空の空気が非常に稀薄《きはく》で、よく沙漠地方におこる熱真空《ヒート・ヴァキューム》ができるのです。
 そこへ来ると飛行機はもうよろよろと蹌踉《よろめ》きます。しかし、絶壁下にひろがる悪魔の尿溜の湿林は濃稠《のうちょう》な蒸気に覆われてまったく見通しが利きません。その靄《もや》か、沼気《しょうき》か、しらぬ灰色の海に、ときどき異様な斑点があらわれるのです。
 私は思い切って、最後の飛行の時ぐっと下降してみました。ところが、いままで、濃霧《ガス》か沼気かと思っていたのが驚いたことに雲のように群れている微細な昆虫だったのです。横三十マイルにもひろがる悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の上空をぎっしりと埋めて、おそろしい蚊蚋《かぶゆ》の大群が群れているのです。マラリア、デング熱の病原蚊、睡眠病の蠅、毒蚋、ナイフのような吻《くち》の大馬蠅の Tufwao《チュファ》 ああ、その大集雲!
 悪魔の尿溜に、よしんば金鉱が隠されてあろうとダイヤモンドが転がっていようと、あるいは珍奇獣虫がいようと原人がいようとも、この永劫《えいごう》霽《は》れようとも思われない毒の羽虫の雲を除くには、恐らくガスマスクをつけ防虫完備の工兵が、優に一師団をもってしても数年はかかろうかと思われます。

 これが飛行家の観察した悪魔の尿溜だが、つぎに、その奥にあるといわれる巨獣の墓場のことである。おそらく読者諸君も、ゴリラや黒猩々《チンパンジー》などの類人猿や、野象にかぎって死体をみせぬのをご承知であろう。してみると、どこか到底人間には行けぬ密林の奥にでも、彼らの死場所がなければならない。悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]がこの条件にぴったりと嵌《はま》っているわけだが、これも作者の創作と思われては困るから、歴然としたパラッフィン・ヤング卿の赤道アフリカ紀行、「コンゴからナイル河水源《カブト・ニリ》[#ルビは「ナイル河水源」にかかる]へ」のなかの一記事を引用しよう。

 晴天だと、ルウエンゾリ山が好箇の目標になるのだが……、降りだして雨霧《もや》に覆われてからは、ただ足にまかせて密林のなかを彷徨《さまよ》いはじめた。泥濘《ぬかるみ》は、荊棘《とげいばら》、蔦葛《つたかずら》とともに、次第に深くなり、絶えず踊るような足取りで蟻《あり》を避けながら、腰までももぐる野象の足跡に落ちこむ。
 すると、前方約百ヤードほどのあたりに、ぴしぴし枝を折りながらドス赭《あか》いものが動いてゆく。ゴリラだ! 私はこのコンゴの奥ふかくにくるまで、ゴリラには一度も逢わなかったのだ。そこで、ほとんど衝動的に連発銃《ウィンチェスター》をとりあげようとした。すると、土人が一人飛びついて銃をおさえ、
「旦那、あのゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]は恩人でがす。殺すなんて、英人《レコア》の旦那らしくもねえでがすぞ」
 土人は、ゴリラのことを“Soko《ソコ》”という愛称で呼んでいる。私は声を荒らげるよりも呆気《あっけ》にとられて、
「なぜいかんのだ。ゴリラが獲《と》れるなんて千載に一遇ではないか」
「それがです。旦那は、野象《ぞう》の穴へ落ちたとき、磁針《ほうみ》をお壊しなすったので、儂《わし》らは、どっちへどう出たらこの森を抜けられるか、いま途方に暮れているでがす。そこへ、あのゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]が教えてくれたでがすよ。つまり、おらが歩んでゆく先が北に当るぞちゅうて……」
「そんなことが、お前にどうして分るね?」
「あのゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]は、いま森の墓場へ死ににゆこうとしているのだ。それが、わしらにはゆけねえ悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]にあるちゅうだ。ゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]はな、雨が降るとあんなには歩きましねえ。ぼんやりと、手を頭にのせてじっと蹲《しゃが》んでおりますだ。わしらは、幼《ちっ》けなときからゴリラ《ソコ》[#ルビは「ゴリラ」にかかる]をみてるだが、雨んなかを、死神にひかれて歩かせられてゆく
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