「ったらなかった。一眼鏡《モノクル》の、目をあけたままポカンと口をあけ、やっと経《た》ってから正気がついたように、
「おう、有尾人《ホモ・コウダッス》!」と唸《うな》るように呟《つぶや》いた。
それは、全身を覆う暗褐色の毛、丈は四フィートあるかなしかで子供のようであり、さらに一尺ほどの尾が薦骨《せんこつ》のあたりからでている。といって、骨格からみれば人間というほかはないのだ。しかし、頭の鉢が低く斜めに殺《そ》げ、さらに眉のある上眼窩弓《じょうがんかきゅう》がたかい。鼻は扁平で鼻孔は大、それに下顎骨《かがっこつ》が異常な発達をしている。仔細《しさい》に見るまでもなく男性なのである。
それはまあいいとして、この有尾人からは、山羊《やぎ》くさいといわれる黒人の臭《にお》いの、おそらく数倍かと思われるような堪《たま》らない体臭が、むんむん湿熱にむれて発散されてくる。アッコルティ先生は、ハンカチで鼻を覆いながらじっと目を据《す》えた。
「ふむ、温和《おとな》しいらしい。ときに、君らには懐《なつ》いているかね」
「ええ、そりゃよく」とカークが煙草の輪を吐きながら答えた。
「すると、これを獲《と》ってから大分になるんだね」
「いいえ、此処《ここ》へきてまだ七日ばかりですよ。第一ドドが、僕の手に落ちてから二週間とはなりません」
「ドドとは……」
「僕らがつけた、この紳士の名前です」
「はっはっはっは、じゃ、有尾人ドド氏というわけだね」
とアッコルティ先生が笑っているなかにも、なにやら解《げ》せぬような色が瞳のなかにうごいている。野生のもの、しかも智能のたかい猿人的獣類が、わずか十日か二週間でこうも懐《なつ》くはずがあるだろうか。
「ときに、君はこのドド氏をどこで獲ったのだね」
「場所ですか」とカークは思わせぶったようにすぐには答えず、まず、ドドを捕まえるにいたった一仍《いちぶ》始終を語りはじめた。
「とにかく、ドドが懐いたというのは、最初の出がよかったからですよ。僕は先生のお説の、ゴリラ定期鬱狂説を利用して、今度こそ六尺もある成獣を捕えてやろうと思って出かけたのです」
アッコルティ先生は、前年度の学会にゴリラ定期鬱狂説を発表して、斯界《しかい》に大センセーションをまき起した。
ゴリラには、憂鬱病《メランコリー》と恐怖症《ホビー》が周期的にきて、その時期がいちばん狂暴になりやすいという。そして苦悶《くもん》が募《つの》って来て堪《た》えられなくなると“Hyraceum《ヒラセウム》”を甜《な》めにきて緩和するというのだ。ヒラセウムとは、岩狸《ハイラックス》が尿所へする尿の水分が、蒸発した残りのねばねばした粘液で、カークはこのヒラセウムのある樹洞《ほら》のまえに、陥穽《わな》を仕掛けようとしたのであった。
「僕は陥穽《わな》をにらんで四昼夜も頑張っていました。すると、五日目の昼になってとうとうやって来ました。それが、なん歳ぐらいのものか藪の密生で分りませんが、とにかく、ぴしぴし枝を折りながら樹洞《ほら》のほうへやってくる。やがて、えらい音がしてどっと土煙があがりました。しめた、生きたゴリラなら十万ドルもんだと、さっと土人と一緒に勢いよく飛びだすと……どうでしょう、たしかに落ちたはずのゴリラの真正面に向きあってしまったのです。しかし、すぐ相手は四足で逃げ出しましたがね」
「ほほ、陥穽《わな》に落ちたのがそのゴリラでないとすると……ドドかね」
「そうなんです、しかし、覗《のぞ》きこんだときはさすが驚きましたよ」
「そうだろう。君みたいな……、コンゴ野獣の親戚《しんせき》でも、これには驚くだろう。しかし、最初のうちは抵抗しただろうが」
「それがしないのです。じつに、ひどい苺果痘《フラムベジア》にかかっていたのです。僕は、なにより可愛想になってきて、さっそく皮膚に水銀|膏《こう》をなすってやると、大分落ちついてきました。もう以前のように幹へからだを擦《こす》ったり、泥を手につけて掻《か》きむしるようなことはしません。ただ、目をほそめて僕の手にある、水銀膏の罐《かん》をものほしそうにながめているのです。それで僕はこいつは物になると思って、その罐を囮《おとり》に手近かの部落まで、とうとうドドをなにもせずにひっ張ってきたのです」
「なるほど、さすがはジャングルの名人芸だね」
思わずアッコルティ先生は感嘆の声を洩《も》らした。
「それから、ドドの苺果痘《フラムベジア》のほうは座間君の手ですっかり癒《なお》りました。ですから、僕と座間君にはむろんのこと、この研究所の出資者メンドーサ氏の令嬢、マヌエラさんにも非常に懐《なつ》いているんです」
ちょうどそこへ、扉がわずかに開いて、うつくしい顔がのぞいた。今も今とて噂《うわさ》したマヌエラ嬢だった。彼女は、
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