W》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の片影をとらえたようでも、森はいよいよ暗く涯《はて》もなく深いのだ。
 すると熱の高下の谷のようなところで、ヤンがマヌエラをそっと葉陰に連れこんだ。
「あなたは、モザンビイクに帰りたいとは思いませんか」
 突然のことに、マヌエラはきょとんと目をみはった。蚊帳ヴェールを透いて、なんでこの期になって思いださせようとするのかと、涙さえ恨めしげにひかっている。
「どうしました? なぜ、黙っているんです」
「疲れたんですわ。あたし、なにか言おうにも、言い表せないんです」
「いや、モザンビイクへ帰れる確実な方法が唯一つあるんです。それは、バイエルタールのところへまた引っ返すことだ。ねえ、あの男は白人の女を欲している」
 そういって、ヤンは蜥蜴《とかげ》のような目をよせてくる。足がふらついて、病苦に痩《や》せさらばえた顔は生きながらの骸骨だ。マヌエラはぞっと気味わるくなってきた。おまけに、座間とカークは泥亀を獲りにいっていない。
「僕とあなたがゆきァ、バイエルタールがなんで殺しましょう。そうして観念してあすこにいるうちにゃ、いつか抜けだす機会がきっとくると思うんです。ねえ、あなたの分別一つでモザンビイクへ帰れる。それとも、奴らに義理をたてて、ここで野垂死《のたれじ》にしますかね」
「でもあたし、あなたのいう意味がすこしも分りませんけど」
「それがいかん。あいつら二人は、僕が今夜のうちにきっと片付けてみせます。熱がさがったとき、不寝番になるはずですからね」
 と言いながら、ヤンはじりじりマヌエラにせまってくる。しかしそれは、どうせ死ぬものなら行きがけの駄賃と、まるで泥で煮つめたような絶望の底の、不逞不逞《ふてぶて》しさとしかマヌエラには思われなかった。熱くさい呼吸、それを避けようともがけばぐらぐらっと地がゆれる。とその瞬間……、意外にもヤンがわっと悲鳴をあげたのである。
 ドドだ。犬歯を牙のようにむきだして、もの凄い唸《うな》り声をたて、唇はヤンを噛《か》んだ血でまっ赤に染っている。憤怒のために、ドドは野性に立ち帰ったのである。切羽《せっぱ》つまったヤンが拳銃《ピストル》をだそうとすると、その手にまたパッと跳《と》びついた。それなり二人は、ひっ組んだまま地上を転がりはじめたのだ。
 大柄な獣さえこない禁断の地響きに、とつぜん、足もとがごうと地鳴りを始めた。
 と見る……ああ、なんという大凄観! とつぜん、目前一帯の地がずずっと陥《お》ちはじめたのである。マヌエラは足もとを掬《すく》われてずでんと倒れたが、夢中で蔦《つた》にすがりつきほっと上をみると、今しも森が沈んでゆくのだ。梢《こずえ》が、一分一寸とじりじりと下るあいだから、まるで夢のなかのような褪《あ》せた鈍《にぶ》い外光が、ながい縞目《しまめ》をなしてさっと差しこんできたのである。森がしずむ! マヌエラは二人の格闘もわすれ、呆然とながめていた。
 大地の亀裂が蜈蚣《むかで》のような罅《ひび》からだんだんに拡がるあいだから、吹きだした地下水がざあっと傾《かし》いだ方へながれてゆく。しかし、そうして崩《くず》れてゆく地層のうえにある樹々は、どうしたことか直立したままである。攀縁性の蔓《つる》植物の緊密なしばりで、おそらく倒れずにそのまま辷《すべ》るのだろう――と考えたが、それも瞬時に裏切られた。
 水の噴出がみるみる土をあらって幹根があらわれる。やがて、数尺下の支根が露《む》きでても……、まるで根ごと地上に浮きでて昇ってゆくような、奇怪な錯覚さえ感じてくるのだ。なんという樹か。その地底までも届くようなおそろしい根を、マヌエラは怪物のようにながめていた。この時耳もとで座間の声がした。
「おう、深井の根《プティ・ラディックス》[#ルビは「深井の根」にかかる]!」
 それが、旧根樹《ニティルダ・アンティクス》という絶滅種ではないのか。根を二十身長も地下に張るというこのアフリカ種は、とうに黒奴《こくど》時代の初期に滅びつつあったはずである。
 と、見る見る視野がひらけた。
 思いがけぬ崩壊が風をおこして、地上の濛気《もうき》が裂けたのである。とたんに、三人がはっと息を窒《つ》めた。それまで、濛気に遮《さえぎ》られてずっと続いていると思われた密林が、ここで陥没地に切り折れている。
 悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]――。
 と三人は眩くような亢奮に我を忘れた。陥没と、大湿林の天険がいかなる探検隊もよせつけぬといわれる、この大秘境の墻《かき》の端まできたのだ。と思うと、眼下にひろがる大|摺鉢地《クレーター》のなかを、なにか見えはせぬかと瞳を凝らしはじめる。
 しかしそこは依然として、濛気と昆虫霧が渦まく灰色の海で、絶壁の数かぎりない罅《
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