ヘ、絶えず斧《おの》をふるって道をひらいてゆく。しかし、蛮煙瘴雨《ばんえんしょうう》に馴れたこの自然児も、わずか十ヤードほどゆくのに二、三時間も死闘を続けるのでは、もうへとへとに疲れてしまった。一本の、馬蔓の根がとおい四、五町先にあって、切るとずうんずうんと密林がうめきだし、しばらくカサコソと何者かが追ってくるような無気味な音をたてている。カークも全精力がつき、ぐたりと樹にもたれた。
「どうする? なにか、こうしたらというような見込みでもあるかね」
「どうするって?![#「?!」は一字] 一体どうなりゃいいんだ」ヤンが、ぎょろっと血ばしった目でふり向いた。
「われわれは、いっそバイエルタールに殺されちまやよかったんだ」
とおく、一つ、鉛筆のような陽の縞《しま》が落ちている。そのほかは、闇にちかいこの密林のなかは、沢地の蒸気をうずめる塵雲《じんうん》のような昆虫だ。それを、蚊帳《かや》ヴェールで避ければ布目にたかってくる。もう、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]へはいくばくもないのだろう。
ところが、そういう筆舌につくせぬ難行のなかで、一人ドドだけは非常に元気だった。マヌエラを背負い、ときどき樹にのぼっては木の実をとってくる。いま密林に抱かれ大自然に囁《ささや》かれ、野性が沸然《ふつぜん》と蘇《よみがえ》って来たのである。それをヤンが見て嘲《あざけ》るようにいった。
「こいつのためだ。こいつを、わざわざ故郷へ送りとどけるために、四人の人間がくたばろうとするんだ。おい獣、貴様、マヌエラさんというお嫁さんがいて嬉《うれ》しいだろうぜ」
こうしてどこという当てもなく彷徨《さまよ》い続けるうちに、やがて日も暮れて第一夜を迎えた。カークは、危険な地上を避けて手頃な樹を選ぼうと思い、ひょいと頭上をみると、枝を結《ゆ》いつけたのが目に入った。ゴリラの巣だ。しかしゴリラは、一日いるだけでまたほかへ巣を作る習性がある。してみるとこのうえもない宿である。
第二日――。
一行全部ひどい下痢と不眠のなかで明けていった。湿林の瘴気《しょうき》がコレラのような症状を起させ、一夜の衰弱で目はくぼみ、四人はひょろひょろと抜け殻のように歩いてゆく。
全身泥まみれで髭《ひげ》はのび、マヌエラまで噎《む》っとなるような異臭がする。そしてこの辺から、巨樹は死に絶え、寄生木《やどりぎ》だけの世界になってきた。これが、パナマ、スマトラと中央アフリカにしかない、ジャングルの大奇景なのである。
つまり、寄生木や無花果《いちじく》属の匍匐《ほふく》性のものが、巨樹にまつわりついて枯らしてしまうのだ。そのあとは、みかけは天を摩《ま》す巨木でありながら、まるで綿でもつめた蛇籠《じゃかご》のように軽く、押せば他愛もなくぐらぐらっと揺れるのである。森が揺れる。一本のうごきが蔦蔓《つたかずら》につたわって、やがて数百の幹がざわめくところは、くらい海底の真昆布の林のようである。四人とも、それには幻を見るような気持だった。
ちょうど正午ごろに、大きな野象らしい足跡にぶつかった。つぶれた棘茎《きょくけい》や葉が泥水に腐り、その池のような溜りが珈琲《コーヒー》色をしている。しかし、そこから先は倒木もあって、わずかながら道がひらけた。しかしそれは、ただ真西へと悪魔の尿溜のほうへ……まさに地獄への一本道である。
疲労と絶望とで、男たちはだんだん野獣のようになってきた。ヤンがマヌエラ共有を主張してカークに殴《なぐ》られた。しかしカークでさえ、妙にせまった呼吸《いき》をし、血ばしった眼でマヌエラをみる、顔は醜い限りだった。
第三日――。
ヤンが、その日から肺炎のような症状になった。漂徨《ひょうこう》と泥と瘴気《しょうき》とおそろしい疲労が、まずこの男のうえに死の手をのべてきたのだ。ひどい熱に浮かされながら、幹にすがり、座間の肩をかりて蹌踉《そうろう》とゆくうちに、あたりの風物がまた一変してしまった。
大きな哺乳類はまったく姿を消し、体重はあっても動きのしずかな、王蛇《ボア》や角喇蜴《イグアナ》などの爬虫《はちゅう》だけの世界になってきた。植物も樹相が全然ちがって、てんで見たこともない根を逆だてたような、気根が下へ垂れるのではなくて垂直に上へむかう、奇妙な巨木が多くなった。それに、絶えず微震でもあるのか足もとの地がゆれている。
してみると、土の性質が軟弱になったのか、それとも、地|辷《すべ》りの危険でもあるのだろうか? この辺をさかいに巨獣が消えたのと思い合わせて、これがたんなる杞憂《きゆう》ではなさそうに考えられて来た。いまにも足もとの土がざあっと崩《くず》れるのではないか――踏む一足一足にも力を抜くようになる。しかしここで、悪魔の尿溜《ムラムブウェ
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