ェ小滝のようにながれてゆくのだった。
「ああ君?![#「?!」は一字]」
カークはじぶんとともに冷静だった座間が、近づく死の刻に取乱してしまったのだと思った。しかし座間はすこしも腕をゆるめずに、まるで恋情のありったけを吐きだしてしまうように、泣いたり笑ったりもう手のつけようもない狂乱振りだった。が、座間は狂ったのではなかった。彼は、悦びと悲しみの大渦巻きのなかで、こんなことを絶《き》れ絶《ぎ》れに叫んでいた。
(“Latah《ラター》”だ。マヌエラにはマレー女の血がある“Latah《ラター》”は、マレー女特有の遺伝病、発作的神経病だ。ああ、いますべてが分ったぞ。あの夜の、ヤンとのあの狂態の因《もと》も……、いま、マヌエラの発作が偶然われわれを救ってくれることも……)
“Latah《ラター》”は、さいしょ軽微な発作が生理的異状期におこる。そのときは、じぶんがなにをしているかが明白《はっきり》と分っていながら、どうにも目のまえの人間の言葉を真似たくなり、またその人の動作をそのまま繰りかえす――つまり、反響言語《エヒョーラリー》、返響運動《エヒョーキネジー》というのがおこる。してみると、いつかのあの夜も、と――座間には次々へと浮んでくるのだ。
あのとき……、ヤンが、あたしを愛してくれますか――と小声で言うと、ちょうど、それそっくりの言葉をマヌエラが繰りかえした。また、抱こうと腕をかけると彼女もおなじ動作をした。それから淑女らしくもない醜猥なひとり言も、思えば醜言症《コプロラリー》という症状の一つなのだ。ああ、マヌエラにはマレーの血があるのだ。おそらく、マレー人系統のマダガスカル人の血が、何代かまえに混入したのであろう。そしていま、それがいく代か経ってマヌエラにあらわれたのだ。
血の禍《わざわ》い、やはりマヌエラも純粋の白人ではない。しかし、いま一人もものを言わないこの小屋のなかで、どうして知りもせぬドイツ語で喋ったのだろう。それが、反響言語《エヒョーラリー》のじつに奇怪なところである。遠くて、普通の耳には聴えぬような音も、異常に鋭くなった発作時の、聴覚には響いてくるのである。
今しも、バイエルタールの部下二人が靴音《くつおと》立てて、小屋のまえを通り過ぎていったところを見ると、マヌエラは、彼らの会話を口真似したに違いない。それでは水牛小屋の地下道というのこそ、唯一のまぎれのない逃げ道だ。
こうして、マヌエラをめぐるあらゆる疑惑が解けた。まるでハイド氏のような二重人格も、怪奇をおもわせたドドの魅魍《みもう》も、さらに、いま五人のものが浮びあがろうとすることも、畢竟《ひっきょう》マヌエラに可憐な狂気があるからだった。座間は、息をふきかえした愛情のはげしさに泣きながら、もう一刻も猶予《ゆうよ》できないことに気がついた。
「諸君、助かるかもしれん。とにかくすぐに水牛小屋へゆこう」
まず、醜言症を聴かせぬためマヌエラには猿轡《さるぐつわ》をし、ドドを連れて、そっと一同が小屋を忍びでたのである。そこには、地下からうねうねと上へのびて東方の絶壁上へでる、やっと這ってゆけるほどの地下道があった。一同はこうして、猿酒郷《シュシャア・タール》を命からがら抜けでたのである。
やがて樹海の線に暁がはじまったころ、おそらく追手のかかるマコンデとは反対に、いよいよ、悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]へと近付く密林のなかへ、心ならずも逃げこんで行くのだった。
雪崩《なだ》れる大地
密林はいよいよふかく暗くなって行った。大懶獣草《メガテリウム・グラス》の犢《こうし》ほどの葉や、スパイクのような棘《とげ》をつけた大|蔦葛《つたかずら》の密生が、鬱蒼《うっそう》と天日をへだてる樹葉の辺りまで伸びている。また、その葉陰《はかげ》に倨然《きょぜん》とわだかまっている、大|蛸《だこ》のような巨木の根。そのうえ、無数に垂れさがっている気根寄生木は、柵のようにからまり、瘤《こぶ》のように結ばれて、まさに自然界の驚異ともいう大障壁をなしているのだった。しかも、下はどろどろの沢地、脛《すね》までもぐるなかには角毒蛇《ホーンド・ヴァイパー》がいる。
蜈蚣《むかで》の、腕ほどもあるのがバサリと落ちて来たり、絶えず傘《かさ》にあたる雨のような音をたてて山|蛭《ひる》が血を吸おうと襲ってくる。まったくバイエルタールの魔手をのがれたのは一時だけのことで、またあらたな絶望が一同を苦しめはじめた。
「殺してよ、座間」
マヌエラが、しまいにはそんなことを言いだした。そして、虚《うつ》ろな、笑いをげらげらとやってみたり、ときどき嫌いなヤンへにッと流眄《ながしめ》を送ったりする。彼女もだんだん、正気を失いはじめてきたのだ。
さすがにカークだけ
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