母さまがおむずかりにでもなったら、それこそで御座いますよ」
 と叱るようにして促がすと、あんな妙なお雛様って――と一端は光子が、邪気《あどけ》なく頬を膨らませてすねてはみたが、案外|従順《すなお》に、連れられるまま祖母の室に赴いた。お筆が住んでいるのは、本屋とは回廊で連なっている離れであって、その薄暗い二階に、好んで起き臥しているのだった。その室は、光琳《こうりん》風の襖絵のある十畳間で、左手の南向きだけが、縁になっていた。その所以《せい》でもあろうか。午後になって陽の向きが変って来ると、室の四隅からは、はや翳《かげ》りが始まって来る。鴨居が沈み、床桂に異様な底光りが加わって来て、それが、様々な物の形に割れ出して行くのだ。すると、唯でさえチンマリとしたお筆の身体が、一際《ひときわ》小さく見えて、はては奇絶な盆石か、無細工な木の根人形としか思われなくなってしまうのだった。
 然し、その日のように雛段が飾られて、紅白に染め分けられた雪洞の灯が、朧ろな裾を引き始めて来ると、そこにはまた別種の鬼気が――今度は、お筆の周囲《ぐるり》から立ち上って来るのだった。と云って、必ずしもそれは、緋毛氈の反
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