時過ぎにはとうに雨戸を鎖ざしてしまう筈のお筆が、その日はどうした事か、からりと開け放っているばかりでなく、縁に敷物までも持ち出して、その上にちんまり坐っているのだった。それだけの事なら何処に他奇があろうぞと云われるだろうが、その時、或は、お筆が狂ったのではないかとも思われたのは、彼女があろう事かあるまい事か、襠掛《しかけ》を羽織っているからだった。全く、八十を越えて老い皺張った老婆が、濃紫の地に大きく金糸の縫い取りで暁雨傘を描き出した太夫着を着、しかも、すうっと襟を抜き出し、衣紋《えもん》を繕っているのであるから、それには全く、美くしさとか調和とか云うものが掻《か》き消《う》せてしまって、何さま醜怪な地獄絵か、それとも思い切って度外れた、弄丸作者《しなだま》の戯画でも見る心持がするのだった。然し、次第に落ち着いて来ると、お筆が馳せている視線の行手に杉江は気が付いた。それがいつもの通り、口を屹《き》っと結んでいて、その※[#縦長の「へ」を右から、その鏡像を左から寄せて、M字形に重ねたような記号、368−9]《いりやま》形の頂辺《てっぺん》が殆んど顔の真中辺まで上って来ているのだが、その幾
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