だもう一人、当主には養母に当るお筆《ふで》の三人が住んでいた。そのお筆は、はや九十に近いけれども、若い頃には、玉屋山三郎《たまややまさぶろう》の火焔宝珠《ほうしのたま》と云われた程の太夫《たゆう》であった。しかも、その源氏名の濃紫《こいむらさき》と云う名を、万延頃の細見で繰ってみれば判る通りで、当時唯一の大籬《おおまがき》に筆頭を張り了《おお》せただけ、なまじなまなかの全盛ではなかったらしい。また、それが稀代の気丈女《きじょうもの》、落籍《ひか》されてから貯めた金で、その後潰れた玉屋の株を買い取ったのであるから、云わば尾彦楼にとっては初代とも云う訳……。従って、当主の兼次郎《けんじろう》夫妻は、幾らか血道が繋がっていると云うのみの事で、勿論《もちろん》腕がなければ、打算高いお筆が夫婦養子にする気遣いはなかったのである。所が、そのお筆には、何十年この方変らない異様な習慣《しきたり》があった。全く聴いただけでさえ、はや背筋が冷たくなって来るような薄気味悪さがそれにあったのだ。と云うのは、鳥渡因果|噺《ばなし》めくけれども、お筆が全盛のころおい通い詰めた人達の遺品を――勿論その中には彼女のた
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