ける螺旋菌《スピロヘーター》(黴毒菌)を眼窩後壁より頭蓋腔中に注入せしめたるなり。実に、大脳を蝕んで、初期に螺旋菌が作り出すものは、現実を超えたる架空の世界ならずや。即ち余は、幹枝に痲痺狂を発せしめて、それ特有の擬神妄想を聴かんと企てたるものなりき。果して、幹枝の高き教養と脱俗の境地に過せし素質は忽ちに自身を天人に擬して、兜羅綿《どらめん》の樹下衆車苑に遊ぶの様を唱い始めたり。その聴き去るに難き美しさは、この一書を綴るの労を厭《いと》わぬほどにして、正に宝積経や源信僧都の往生要集の如きは、到底比すべくも非ずと思いたりき。
――然るに、その最中余を驚かせたるものありて、幹枝の懐妊を知れり。早速沼津在の農家に送りて分娩を終らしめ、再び本園に連れ帰りしは、本年の一月なりき。されど、その間において幹枝の心身には、果して期せるが如く痛ましき変化を来たせり。即ち、螺旋菌の脊髄中に入りしためにして、運動に失調起り下腹部に激烈なる疼痛現われて、幹枝の幻想も苦痛に伴う悲哀の表現に充ち、華鬘萎み羽衣穢れ――とかいう、天人衰焉の様を唱うようになれり。かくなりては、一路植物性の存在に退化するのみにして、治療
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