子のつながり――あの血縁の神秘は、決して、夢の中で話されるような、取りとめのない言葉ではございません。
私は、そのようにして、父を安土に導いたとはいえ、一方では、あの狂った哀れな父が、二度と再び現われてこないと思うと、不意に、痛ましい悲しみの湧《わ》くのを覚えるのでした。けれども、そこには一つの疑惑があって、果たしてあの男が真実の父なのだろうか――そう思うと、面影にこそ記憶があれ、いちずにそうとのみ、決めてしまうのができなくなったように思われました。
そうして私は、父の遺骸《いがい》を始末してくれた、グレプニツキーに伴われて、いつ尽きるか果てしのない、苦悩と懐疑の旅にのぼっていったのです。そこで、お話ししなければならないのは、なぜグレプニツキーが、はるばるサガレンまで来たかということです。実は奥方様、あの男は、カタリナ皇后《さま》から、アレウート号の船長に任命されて、このラショワ島にある黄金郷《エルドラドー》の探検を命ぜられたのです。あの黄金都市《エルドラドー》の輝きを、いまも私は、はっきりと見たのでしたわ」
その一言で、はしなく三人の目が一つになった。
それは、驚異などという言葉では、とうてい言い表わせない、むしろ恐ろしい、空虚《うつろ》のように思われた。ことに、横蔵の眼は爛々《らんらん》と燃えて、今にも全世界が、彼の足下にひれ伏すのではないかと考えられた。
フローラは、言葉を次いで、
「つきましては、最初からの事を申し上げねばなりませんが、グレプニツキーの話によりますと、それが、一七四一年六月のある朝だったそうでございます。この島の南々東二カイリの海上を進んでおりますうちに、聖ピヨトル号の甲板にいた、ベーリングと父が、はっきりとこの島の上に、円い金色の幻暈《かさ》を見たのでした。
それは、海霧《ガス》の中を、黄色い星の群れが、迷いさまよってでもいるかのように、その金色の円盤が、島を後光のように覆うていたとか申します。そして、ベーリングはただ一人小舟を操って、そのころは無人島だった、この島に上陸したそうですが、その結果がどうであったかということは、とうとうもどってからも、聴かれなかったとかいうそうでした。
ところが、その年の十二月八日、ベーリング島で臨終の朝に、はしなくその秘密が、ベーリングの手で明らかにされました。壊血病にかかって、腐敗した腿《もも》の上に、見えない眼で、EL《エル》 DORADORA《ドラドーラ》――とまで書いたそうですが、それなり父の手を、かたく握りしめてあの世に旅立ってしまったのでした。
その RA《ラ》 が、RASHAU《ラショワ》 島の最初の一つづりであることは、すでに疑うべくもありません。しかし、それを見て父はあまりの驚きに狂ってしまったのでしたが、グレプニツキーは翌年本土にもどって、その旨をカタリナ皇后《さま》に言上したそうです。けれども、奥方様、私は乗り込んだアレウート号の中で、ふたたび、あの獣物臭い恐怖を経験することになりました。
それが、どうでございましたろうか、心臓を貫いて、硬《こわ》ばりまでした父が――しかも八尺もの地下に葬られたはずの父が、いつの間にか船に乗り込んでいて、私の前に、あの怖《おぞ》ましい姿を現わしたのですから、私は、土をかき分け、墓石を倒した血みどろの爪《つめ》を、はっきりと見たのでしたわ」
恋愛三昧
「それが、乗り込んでから、十八日目の夜のことで、戸外の闇《やみ》には、恐ろしい嵐《あらし》が咆《ほ》え狂っておりました。冷たい風が、どこからとなく隙《すき》をくぐって、ともすると消されがちな、角燈を揺らめかしているのでしたが、私は、なんのことなく椅子《いす》にかけていて、いつか通り過ぎた、シベリアの村々を夢見ておりました。すると、霧が細かい滴となってかかる、ガラス戸の向こうに、それはおそろしいものが現われたのです。
どす黒い、斑点《はんてん》のある、への字形に反りかえった腕が、格ガラスの右端から現われて、今にも、ハンドルに手をかけようとするのです……おお、父はよみがえったのでした。どうあっても、あんな片輪めいた、反り腕の男など、乗組員の中には一人としていないのですから。そう思うと私は、頭の中の血が、サッと心臓に引き揚げたように感じて、クラクラと扉《とびら》によろめきかかりました。そして、呼吸を落ち着け、しっかりしようと努力しながら、扉に当てた椅子《いす》に、いつまでかじりついていたことでしょう。
しかし、父の腕は、その瞬間限り消えてしまいましたけれど、ふとそれにつれて、私の胸にギスリと突き刺さったものがありました。というのは、海に乗り出すと間もなく、船内に、それは得体の知れない、悪疫《えやみ》がはびこってきたからでした」
「悪疫」
三人は、思わず弾《は》ね上げられたような、声を立てた。
「さようでございます。最初は、二、三日下痢模様が続きますと、骨も髄も抜け果てたようになって、次第に皮膚の色が透き通ってまいるのです。それで、病人たちは、死の近きを知るころになると、きまって船底近い、臥床《ふしど》から這《は》い出していくのです。そして、狂気のようになって、甲板へ出ようとしますけれど、そこには岩のような靴《くつ》と、ヒューヒューうなる鞭《むち》が待ち構えているのでした。でもう、しまいには死の手に押さえつけられてしまって、わずかに首と、弱った頭をもたげるにすぎなくなってしまうのです。
ところが、それから二度三度と現われた父の手は、いつも決まって、船底に続く鉄梯子《てつばしご》の方角のほうから現われてくるのでした。それからというもの私は、もしやしたら父と悪疫《えやみ》との間に、何か不思議なつながりがあるのではないか――ないかないかと、それのみをただ執念《しゅうね》く考えつめるようになりました。ですから、その軍船の中には、じりじり燃え広がっていく、恐ろしい悪疫と……。それから、野鳥のように子を犯そうとする、煙のような悪霊とが潜んでいるのです。
打ち沈めて、……お願いですわ。……打ち沈めてくださいまし。それでないと、今にきっとこの島には鳥一羽、寄りつかなくなるに決まってますから」
次第に調子を高めてきたフローラは、最後の言葉を、つんざくような鋭さで叫んだ。
すると、応と答えた横蔵が、撥《ばち》を取り上げ、太鼓を連打すると、軍船を囲んだ小舟からは異様な喚声があがり、振り注ぐ火箭《ひや》が花火のように見えた。
そうしてしばらくの間、アレウート号の炎は、いろいろな形に裂け分かれて、真紅の模様を、輝く水面に刻み出していたが、やがて波紋が積もり重なり、柔らかな鏡のようになると、わずか突き出た檣《マスト》の先に、再び海鳥が群がりはじめた。
こうして、フローラを忌まわしくも追い続けた悪霊の船、悪疫を積んだアレウート号は、再び水面に浮かぶことがなかったのである。
その間、ちらつく火影の中で、紅琴はフローラの物語を聴き続けていた。
「でございますもの。私がいつか、あの船を逃れよう逃れようとしたって、無理ではございませんでしょう。ところが、そうこうともだえているうちに、計らずも今朝、黄金郷《エルドラドー》の輝きを望見したのでございます。
それは、白夜がはじまろうとする白っぽい光の中で、島の頂きを覆う金色の輪が、暈《かさ》のように広がり縮んでいて、それは透かし絵の、影像のように見られたのでした。しかし、その冷たい湿っぽい感覚が、私の肺臓にずうんとしみわたりました。逃れるのはいま――私は、鹹《から》っぽい両|掌《て》に汗を浮かべて、病を装おうと決心しました。それからが、こうして、手厚いおもてなしをいただく仕儀にございます。どうかいつまでも、下碑《はしため》になりと、御手元にお置きくださいませ」
永々と続いた、フローラの物語は終わった。
ちょうどそれは、鏡に吹きかけた息のようなものであった。彼女をおびやかした、忌まわしい悪夢の世界は、すべて何もかも、海中に没し去ってしまったのである。
そうしてフローラは、新しい生活を踏み出すことになった。
しかし、ベーリングをはじめ、彼女さえも遠望したという黄金郷《エルドラドー》の所在は、ついに、この島のどこにあるのか明らかではなかった。それは、フローラという緑毛の処女が、そもそも神秘的な存在であるように、黄金郷という名を、聴いただけでさえ、三人は竜巻《たつまき》の中に巻き込まれたような気がしたらしい。
ところが、その翌日から、フローラをめぐって、この島には激しい情欲の渦《うず》が巻き起こることになった。
その翌日――フローラがすがすがしい陽《ひ》の光に眼覚めたとき、浜辺のほうから、異様な喚声が近づいてくるのを聴いた。
見ると、彼女はハッとなって胸を抱きしめた。そこには、土人たちに取り巻かれて、昨夜運命を、船と共に決したとばかり思われたグレプニツキーが、無残な俘虜《ふりょ》姿をさらしているのだ。
首には、流木の刺股《さすまた》をくくりつけられ、頭はまた妙な格好で、高く天竺《てんじく》玉に結び上げられている。そしてこの黄色い顔に、洞《ほこら》のような眼をした陰気な老人は、突かれては転びながら、次第に岩城《いわしろ》さして近づいてくるのである。
けれども、それから始まった、横蔵の火の出るような尋問も、ついに効果はなかった。
やはり彼も、フローラと同じことを言うのみで、黄金郷《エルドラドー》の所在は、依然迷霧の中に閉ざされているのであった。それから、グレプニツキーは、土人小屋に収容されたが、賢《さか》しい紅琴は、早くもただならない、二人の気配を悟ることができた。
「そもじ二人は、小さいながら、このラショワ島が一国であるのを忘れたとみえますのう。総じて貴人というものは、上淫《じょういん》を嗜《たしな》むのです。そなた二人は、虹《にじ》とだに雲の上にかける思いと――いう、恋歌を御存じか。そのとおり、王侯の妃《きさき》さえも、犯したいと思うのが性情《ならい》なのじゃ。そのゆえ、遊女には上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》風の粧《よそお》いをさせて、太夫《だゆう》様、此君《このきみ》様などともいい、客よりも上座にすえるのです。それも、一つには、客としての見識だろうと思いますがのう。くれぐれも、女子の情けを、ひどう奪ってはなりませぬぞ。それで、今日この今から、フローラを太夫姿にして、私は、意地と振り(客と一つ寝を拒む権利)を与えようと思うのです。相手の意に任せながら、その牆《かき》を越えてこそ、そもじ二人は、この島の主といえるのじゃ」
昨夜に続いて、再びこの島にも、聞くも不思議な世界が、ひらかれいこうとしている。
それは、横蔵、慈悲太郎の瞳《ひとみ》の底で、ひそかに燃え上がった、情けの焔《ほむら》を見て取ったからであろうか、二人の争いを未然に防ごうとして、紅琴が、世にも賢しい処置に出たのであった。そして、フローラには、あわただしい、春の最初の印象が胸を打ったのである。
ぬれた、青葉のような緑の髪を、立兵庫《たてひょうご》に結い上げて、その所々に差し入れた、後光のような笄《こうがい》に軽く触れたとき……フローラの全身からは、波打つような感覚が起こってきた。またそうした、恋の絵巻の染めいろを、自分の眉《まゆ》、碧々《あおあお》とした眼に映してみると、その対照の香り不思議な色合いに、われともなくフローラは、美の泉を見いだしたような気がした。
彼女は、ハッハと上気して、腰を無性にもじもじ回しはじめた。
それから、床着《とこぎ》の黄八丈を着て、藤紫の上衣を重ね、結んだしごきは燃え立つような紅《くれない》。そのしどけなさ、しどけなく乱れた裾《すそ》、燃え上がる裾に、白雪と紛う腓《ふくらはぎ》。やがて、裲襠《うちかけ》を羽織ったとき、その重い着物は、黄金と朱の、激流を作って波打ち崩れるのだった。
こうして、フローラに太夫姿が整えられると、悩ましかった過去の悪夢も、どこ
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