上がったものがあった。
その瞬間横蔵は、眩《くら》み真転《まろば》わんばかりの激動をうけた。平衡を失って、不覚にも彼は、片足を浅瀬の中に突き入れてしまった。
いまや帆を焼き尽くし、火縄《ひなわ》を失って、軍船は速力さえも減じつつあるのではないか。まさに、追撃を試みる絶好の機会にもかかわらず、なにゆえに横蔵からは、好戦の血が失われてしまったのであろう?
彼は、眼前の、この世ならぬ妖《あや》しさに蠱惑《こわく》され、自分の幻影を壊すまいとして、そのまましばらくは、じっと姿勢を変えなかったのである。
それは、眼底の神経が、露出したかと思われるばかりの、鋭い凝視だった。
頭上の、蒼白《あおじろ》い太陽から降り注ぐ、清冽《せいれつ》な夜気の中で、渚の腐れ藻《も》の間から、一人の女が身をもたげてきた。そして、体を動かすごとに、藻の片々が摺《す》り落ちて、間もなく彼女が、裸体であることがわかった。
こんな遅い時刻でさえも、中天にただ一つ、つけっ放しになっている蒼いランプは、すんなりした女の姿を、妖精《ようせい》のように見せていた。それがちょうど、透き通った、美しい外套《がいとう》でもあるかのように、両肩も胸も、たくましい肉づきの腰も、――何もかも、つるつるとした絹のような肌身を、半ば透明な、半ばどんよりとした、神秘の光が覆うているのだ。
こうして、最初のうちこそ、流血を予期された事態が、計らずも一変した。軍船も砲列も、毒矢も、火箭も、ただいちずに、夢の靄《もや》の中へ溶け込んでゆくのである。
しかし一方では、そうした驚きの中で、妙に迷信的な、空恐ろしさが高まっていった。
というのは、女の体の一部に、どう見ても、それが人間的でないものが、認められたからである。その女の持つ毛という毛、髪という髪からは、肩に垂れた濡髪《ぬれがみ》からも、また、茂みを吹く風のように、衣摺《きぬず》れの音でも立てそうな体毛からも、それはまたとない、不思議な炎が燃え上がっているのだ――緑色の髪の毛。
それゆえ、ともすると横蔵は、錯覚に引き入れられ、金色に輝く全身の生毛《うぶげ》に、人魚を夢見つつ、つぶやくのだった。
「うむ、緑の髪を持った女――さっき渚から這《は》い上がったとき、たしかに儂《わし》は、貝殻《かいがら》のような小さい足を見たはずだぞ。両親は、寛永の昔サガレンに流れ寄った漂流民、それから、イルツクの日本語学校で育った儂たちだ。松前の藩から、上陸を拒まれたを機《しお》に、この島に根城を求めたが、今までは一とおり、金髪にも亜麻《あま》色にも……。ええしたが、五大州六百八十二島の中で、ものもあろうに緑の髪の毛とは……」
しかし、そうしているうちに、横蔵の眼は、ほとんど痛いくらいに、チカチカしはじめた。
見ると、女はよろよろ歩き出して、夢中に藻の衣を脱ぎ続けるのだ。
唇《くちびる》をキュッと結び、寒気を耐えるように、両腕を首の下で締めつけると、ずるりと落ち、荒布《あらめ》の下から、それは牝鹿《めじか》のような肩が現われた。乳房は石のように固くなっていて、高まり切った乳首、えくぼのような臍《へそ》、それを中心に盛り上がった、下腹部の肉づきのみずみずしさ。
彼女の動作は、大きく弱々しく、ほどよく伸びた腓《ふくらはぎ》が、いまにも折れそうになっていく。
しかし彼女は、横蔵を眼に止めたとき、はじめて――それも本能的に、羞恥《しゅうち》の姿勢をとった。はじめは、メディチのヴィナスのように、片手を乳の上に曲げ、他の伸ばしたほうの掌《て》を、ふさふさとした三角形《デルタ》の陰影《かげ》の上に置いた。が、すぐとこんどは、カノヴァのそれのように、両手を胸の上で組み交わした。
そして、その姿勢のまま、臆《おく》する色もなく横蔵に言った。
「私、たいへん寒いんですの。もう凍《こご》え死にしそうですわ。いえいえ決して、あなたがたの敵ではございませんから」
それはともすると、打ち合う歯の音に、消されがちだったけれど、紛れもない魯西亜《オロシャ》言葉だった。
「うむ、※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]《おき》はもちろん、場合によっては、家も衣も、進ぜようがのう。したが女、そちはどこからまいったのじゃ」
そう言いながら、自分の唇に、濡《ぬ》れた相手の腋毛《わきげ》を、しごきたいような欲情に駆られ、横蔵はぶるると身を震わした。
「言うまでもありませんわ。あの軍船、アレウート号からでございます。実は、十日ほど前から、悪疫に襲われまして、すんでのことに、私も水葬されるところだったのでした。でも、御安心あそばせな。私はただ、一つの部屋におりましたというのみのこと、伝染《うつ》るのを恐れて、投げ入れられましたなれど、実はこのとおり健《すこ》やかなのでございますから」
女の心臓が、横蔵のそれほど、激しく鼓動してないことは、言葉つきでも知れた。そして、静かに顔をめぐらして、岩城《いわしろ》の明かりを、もの欲しげに見やるのだったが、その時、軍船の舵機《だき》が物のみごとに破壊された。新しい囚虜《とりこ》を得た、歓呼の鯨波《とき》が、ドッといっせいに挙がる。
おお、魯西亜の軍船アレウート号は、われらが手に落ちた。そして――と横蔵は、ふと恋のなかった自分の過去を、あれこれと描き出すのだった。
それから、小半刻《こはんとき》ばかりののちに、女はどうやら精気を取りもどしたらしい。岩城の中の一室で三人の姉弟に取り巻かれて、いまや彼女は、薔薇《ばら》色のうねりを頬《ほお》に立てつつあるのだ。
それは、惹《ひ》きつけられるほどに若い、二十歳ごろの娘だった。
髪も眉《まゆ》も、薄い口髭《くちひげ》もまったくの緑色で――その不思議な色合いが、この娘を何かしら、神々《こうごう》しく見せるのだった。
そこは、部屋とはいえ、むしろ岩室と呼ぶほうが似つかわしいであろう。それとも、教坊の陰気臭さが、奇巌《きがん》珍石に奥まられた、岩狭《はざま》の闇《やみ》がそれであろうか。岩をくり抜いて作った、幾つかの部屋部屋には、壁に、斜め市松の切り子ガラスなど、はめられているけれども、総じて無装飾な、真っ黒にくすぶり切った、椅子《いす》や曲木《まげき》の寝床などが散在しているにすぎなかった。
壁の一枚岩にも、ところどころ自然がもてあそんだ浮き彫りのようなものが見られるけれど、それらもみな、蒼然《そうぜん》たる古色を帯び煤《すす》けかえっているのだ。
しかし、そこで女は、彼女に劣らぬほど、美しい一人の女性を発見した。
その婦人は、横蔵・慈悲太郎には、姉に当たる紅琴女だった。
年のころは、三十を幾つか越えていて、鼻のとがった、皮膚の色の透き通った――それでいて、唇には濃過ぎるほどに濃い紅がたたえられているといった――どこか調和のとれない、病的な影のある女だった。そして、すらりとした華奢《きゃしゃ》な体を、揺り椅子《いす》に横たえて、足へは踵《かかと》の高い木沓《きぐつ》をうがち、首から下を、深々とした黒|貂《てん》の外套《がいとう》が覆うていた。
女は、紅琴の慈悲深い言葉で問われるままに、最初自分の名を、フローラ・ステツレルと答えた。
「一とおりお耳に入れて、なぜ私が、この軍船に乗り込まなければならなかったか……、またなぜ、逃れねばならなかったか……、それから、アレウート号がこの島を目指したについての指令を、一応はお聴き分け願いたいと存じまして。でも、それは容易に、御理解できなかろうと思いますわ。あんまり人の世放れのした、それはそれは、不思議な話なんですもの。実は、私サガレンのチウメンで父を殺してまいりました――あのザルキビッチュ・ステツレルをですわ」
とフローラのこめかみに、一条、真《ま》っ蒼《さお》な血管が浮かび上がると、紅琴は、それを驚いたようにみつめて言った。
「なに、そもじはなんとお言いやった――たしか、ザルキビッチュ・ステツレルと、私は聴きましたが。ではあの、ベーリングの探検船『聖ピヨトル』号に乗り込んだ、博物学者のステツレルはそもじの父なのか」
フローラは、それを眼色でうなずいて、むしろ冷たく言い返した。
「もっとも、母のドラと従妹《いとこ》だったせいもあるでしょうが、父とベーリングの仲は、それはまたとない間柄だったのです。私は、出発の朝――それが六つの三月でしたけれども、二人には雪割草の花束を贈り、また二人からは、頭をなでられたのを、記憶しております。ところが、ベーリング様は、翌年の十二月八日に、ベーリング島でお亡くなりになりました。父も最初は、チウメンで、その五年後に凍死したという、噂《うわさ》を立てられましたのです。それが気病みとなって、ほどなく母は、私を残してこの世を去ってしまいました。
ところがそれからも、私の不仕合せはいつから尽きようとはいたしませず、慈悲も憫《あわ》れみもない親族どもは、私をカゴツ(中欧から北にかけて住む一種の賤民《せんみん》)の群れに売り渡してしまったのです。そうして、普魯西《プロシヤ》から波蘭《ポーランド》を経て、魯西亜《オロシャ》の本土に入り、それからは果てしのない旅を続けました。
その間私は、いつ海が見えるか、見えるかと思いながら、草原《ステップ》の涯《はて》に、それは広大な幻を描いておりました。なぜかと申しますなら、父を奪い去った海、あの自由な不思議な水の国を見て、私は自分の運命を、泣きもしようし悲しみもしようし、またその底深くに、もしやしたら、あきらめがありはしないかと思われたからです。
そうして、とうとう海に近い、チウメンまでたどりついたのですが、それは氷が割れて、新しい苔《こけ》が芽を吹き出す五月のこと、それでかかった十数年の旅の間に、私はすっかり、熟し切った処女になっておりました。ところが、チウメンに宿を求めた、三日目の夜のこと、私は思いがけなく父に出会ったのでした」
「したが、成人されたそもじを、父はどうして知りやったのじゃ、さぞ幼いころの面影を思い出して、そもじの父は、泣きやったであろうな」
とわがことのように、紅琴が急《せ》き入るにもかかわらず、フローラはいっこうに表情を変えなかった。
「いいえ、それはこうなのでございます。実は、炉辺のつれづれ話に、うっかり私は、本名を明かしてしまったのです。すると、そばにおりました富有そうな老人が、やにわに私の腕をつかんで、別室に引き入れました。その老人が、以前は『聖ピヨトル号』の船長だった、グレプニツキーだったのです。
そして、私の父が、今なおこの町に、生存していることを話してくれましたし、何よりその場で、私を父に会わせると誓ってくれました。しかし、翌朝になってみると、この世が現在も未来も、すべてがもの恐ろしい、空虚の底へなだれ込んでしまったのを知りました。
私は、いつの間にか、壁側の椅子になんということなく腰を掛けていて、この上は苦しみから逃れるために、いっそ生命も尽き、墓石の下で安らかに眠りたいとばかり念じておりました。それは、眼の前に、冷え冷えと横たわっている、一人の老人があったからです。
父でした――ええ、父ですとも、なんで幼かったとはいえ、私の記憶からあの面影が消え去りましょうか。しかし、父は中風を患ったとみえて、私のことなどさらさら記憶にもなく、おまけに左眼はつぶれ、右手は凍傷のため反り腕になっていて、両手の指は、醜い癩《らい》のようにひしゃげつぶれているのでした。その腕を広げて、あろうことか、私に淫《みだ》らしい挑《いど》みを見せてまいったのです。そして、その獣物《けだもの》のような狂乱が、とうとう私に……」
とフローラは、長々と尾を引いて、低く低く声を落としたが、続けた。
「ですけど、お慈悲深い基督《キリスト》様は、たぶん私をお許しくださるでしょう。およそ地上に、こうも不思議と神秘に満ちた大いなる愛があるでしょうか。私は、父の死後の生活を思って、同じ血同じ肉の交らいを、犯させまいとして、父を刺し殺したのでございます。ですけど、父と
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