紅毛傾城
小栗虫太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)黄金郷《エルドラドー》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)海賊|砦《とりで》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]
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  序 ベーリング黄金郷《エルドラドー》の所在を知ること
     ならびに千島ラショワ島の海賊|砦《とりで》のこと

 四月このかた、薬餌《やくじ》から離れられず、そうでなくてさえも、夏には人一倍弱いのであるが、この夏私は、暑気が募るにしたがって、折りふし奇怪な感覚に悩まされることが多くなった。
 ちょうどそれは、私の心臓のなかで、脈打ちの律動が絶えず変化していくように、波打つ暑気の峰と谷とだ。はっきりと、しかも不気味にも知覚されるのであった。
 しかし、そうした折りには、家人に命じて庭先に火を焚《た》かせ、それに不用な雑書類などを投げ入れるのである。それは、影像の楯《たて》をつくって、ひたすら病苦から逃がれんがためであった。
 そのようにして私は、真夏の白昼舌のような火炎を作り、揺らぎのぼる陽炎《かげろう》に打ち震える、夏菊の長い茎などを見やっては、とくりともなく、海の幻想に浸るのが常であった。
 ところが、ある一日のこと、ふとその炎のなかで、のたうち回る、一匹の鯨を眼に止めたのである。
 そこで私は、まったく慌《あわ》てふためいて、手早く※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]《おき》を蹴散《けち》らしながら、取りだした二冊の書物があった。ああ、すんでのことに私は、貴重な資料を焼き捨ててしまうところだった。
 表紙のないその二冊には、ただピーボディ博物館という、検印が押してあるのみなので、軽率にも私は、取るに足らぬ目録のたぐいかと誤信して、そのまま書き屑《くず》のなかへ突っ込んでしまったらしいのである。
 しかし、そうして事新しく、その二冊を手にしたとき、これこそ、泥沼に埋もれつつある石碑《いしぶみ》の一つだと思った。
 それは以前、合衆国マサチュセッツ州サレムにあった、ピーボディ博物館の蔵書であって、著名な鯨画の収集家、アラン・フォーブス氏の寄贈になるものであった。
 で、そのうちの一冊は、書名を『捕鯨行銅版画集《エッチングス・オヴ・ホウェーリング・クルーズ》、|付記、捕鯨略史《ウィズ・エ・ブリーフ・ヒストリー・オヴ・ゼ・ホウェール・フィッシャリー》』という、一八六六年の版、ジェー・アール・ブラウンという人の著書である。
 それには、ヨナと鯨の古版画をはじめとして、それらに入れ混じり、勝川|春亭《しゅんてい》の「品川沖之鯨|高輪《たかなわ》より見る之図」や、歌川|国芳《くによし》の「七浦捕鯨之図」「宮本武蔵巨鯨退治之図」などが挿入《そうにゅう》されてあった。
 しかし、真実の驚きというのは、もう一冊のほうにあって、私は読みゆくにしたがい、容易ならぬ掘り出し物をしたことがわかってきた。
 そのほうは、ずうっと版も古く、書名を『|捕鯨船ブリッグ号難破録《ゼ・ホウェーリング・ディザスター・オヴ・シップ・ブリッグ》』というのである。
 その船の名は、スターバックの『亜米利加《アメリカ》捕鯨史』にも記されているとおりで、一七八四年の夏ボストンに、鯨油六百|樽《バレル》を持ち帰ったのが、最初の記録だった。
 しかし同船は、その後一七八六年に、アリューシャン列島中のアマリア島で難破したのであるから、当然その一冊も、船長フロストの遭難記にほかならぬのである。
 ところが、内容の終わり近くになると、計らずも数ページの驚畏すべき記事が、私の眼を射た。
 それは、素朴《そぼく》そのままの、何ら飾り気のない文章で、七年ぶりに帰還した、土人ナガウライの談話と銘打たれてある。
 しかし、読みゆくにつれて、私の手は震え、脈が奔馬のように走り始めた。
 なぜなら、同人の見聞談として、最初まず、千島ラショワ島に築かれた、峨々《がが》たる岩城《いわしろ》のこと……、また、そこに住む海賊|蘇古根《そこね》三人姉弟のこと……、さらに、その島を望んだヴィッス・ベーリング――(注 ベーリング――。事実はそうでないが、ベーリング海峡の発見者といわれる丁抹《デンマーク》人。一七四一年「聖ピヨトル号」に乗じて、地理学者ステツレル、船長グレプニツキーとともに、ベーリング海峡を縦航したるも、十月五日コマンドルスキー群島付近において難破し、十二月八日壊血病にて斃《たお》る。その島をベーリング島という)が、兼ねて伝え聴きし、黄金郷こそこの島ならんか――と、その事実を、遺書にまで残したことなど、記されているのであるから。
 EL《エル》 DORADO《ドラドー》――それはついにインカ族が所在を秘しおおせてしまったところの、まさに伝説中の伝説であった。
 かつて、西班牙《スペイン》植民史には幻の華《はな》となって咲き、南米エセクイボの渓谷にあるとのみ信じられて、マルチネツはじめ、数千の犠牲をのみ尽くした黄金都市がそれである。
 だが、いったいベーリングは、なぜその夢想の都市に、千島ラショワ島を擬しているのであろうか。ああ、どうしてのこと、熱沙《ねっさ》の中から、所在を氷海の一孤島に移しているのであろうか。
 私も、読み終わると同時に、しばらくの間は、熱気のほてりに茫然《ぼうぜん》となっている。
 しかし、黄金郷《エルドラドー》の所在――そういう世紀的な謎《なぞ》をめぐって、あの、ラショワ島の白夜を悩まし続けた、血みどろの悲劇を思うと、なんだかこれを、実録として発表するのが惜しくなってきた。
 そして、泡《あわ》よくば一編の小説として、これを世に問いたい誘惑に打ちかち兼ねてしまったのである。

  緑毛の人魚

 つい一刻ほど前には、渚《なぎさ》の岩の、どの谷どの峰にも、じめじめした、乳のような海霧《ガス》が立ちこめていて、その漂いが、眠りを求め得ない悪霊のように思われた。
 すでに刻限も夜半に近く、ほどなく海霧《ガス》も晴れ間を見せようというころ、ラショワ島の岩城は、いまや昏々《こんこん》と眠りたけていた。
 見張りの交代もほど間近とみえ、魚油をともす篝《かがり》の火が、つながり合いひろがり合う霧の中を、のろのろと、異様な波紋を描きながら、上っていくのだった。
 すると、それから間もなく、何事が起こったのであろうか、ドドドドンと、けたたましい太鼓の音。それが、海波の哮《たけ》りを圧して、望楼からとどろき渡った。
「慈悲太郎、どうじゃ。見えるであろうな。あの二楼帆船《フリゲート》には、ベットの砲楼が付いているわい。ハハハハ、驚くには当たらぬ、あれが軍船でのうてなんじゃ。魯西亜《オロシャ》もこんどこそは怒りおったとみえ、どうやら、火砲《カノン》を差し向けてきたらしいぞ」
 と蘇古根横蔵は撥《ばち》を据《す》えて、いつも変わることのない、底知れぬ胆力を示した。そして、海気に焼け切った鉤鼻《かぎばな》を弟に向けて、髻《もとどり》をゆるやかに揺すぶるのだった。
「だが兄上、私はただ、海波高かれとばかりに祈りおりまする。そして、舷側《げんそく》の砲列が役立たぬようにとな」
 火器のない、この島のひ弱い武装を知る弟は、ただただ、迫り来たった海戦におびえるばかりだった。が、それに横蔵は、波浪のような爆笑をあげた。
「いやいや、火砲《カノン》とは申せ、運用発射を鍛練してこその兵器じゃ。魯西亜《オロシャ》の水兵《マドロス》どもには、分度儀《ジャスパー》も測度計《サイドスケール》も要らぬはずじゃ。水平の射撃ならともかく、一高一低ともなれば、あれらはみな、死物的に固着してしまうのじゃよ。慈悲太郎、兄はいま抱火矢を使って、あの軍船と対舷《たいげん》砲撃を交わしてみせるわ」
 それは、何物の影をも映そうとせぬ、鏡のように、外は白夜に開け放たれた。
 その蒼白《そうはく》さ、なんともたとえようのない色合いのほのめきは、ちょうど、一面に散り敷いた色のない雲のようであった。
 その中を、渚《なぎさ》では法螺《ほら》貝が鳴り渡り、土人どもは、櫂《かい》や帆桁《ほげた》に飛びついた。次第に、荒々しい騒音が激しくなっていき、やがて臆病《おくびょう》な犬のそれのように、嚇《おど》しの、喉《のど》をいっぱいにふくらませた、一つの叫び声にまとまっていくのだった。
 しかし、渚を離れて、その幾艘《いくそう》かの小舟が、ほとんど識別し難い点のようになると、入江の奥は、ふたたび旧の静寂に戻った。
 その時慈悲太郎は、静かに砂を踏み、入江を囲む、岬《みさき》の鼻のほうに歩んで行った。
 青白い日光が、茫漠《ぼうばく》たる寂寥《せきりょう》の中で、こうもはっきりと見られるのに、岬の先では、海が犠牲《いけにえ》をのもうと待ち構えている。それが、嵐《あらし》を前にした、ねつっこい静けさとでもいうのであろうか。いや、嵐を呼ぶ、海鳥の泣き狂う声さえ聞こえないではないか。
 背後には、四季絶えず陰気の色の変わらぬ、岩柱の城がそそり立ち、灰色をした地平線の手前には、空の色よりも、幾分濃いとしか思われぬ鉛色の船体が、いとも眠たげに近づいてくるのである。
 まこと、その二つのものは、冷たい海の上に現われた幻のように、それとも、仄暗《ほのぐら》い影絵としか思えないのだった。
 しかし、味方は巧妙に舟を操って、あるいは水煙の中に隠れ、滝津瀬のようなとどろきを上げる、波濤《はとう》の谷底を選《え》り進んでは、軍船に近づくまで、いっこうに姿を現わさなかった。
 そうしているうちに、真《ま》っ蒼《さお》に立ち上がってくる、山のようなうねりが押し寄せたと見る間に、その渓谷から尾を引いて、最初の火箭《ひや》が、まっしぐらに軍船をめがけて飛びかかった。
 ところが、その瞬間、砲声を聴くと思いのほか、意外にも、侘《わ》びし気な合唱の声が、軍船の中から漏れてきた。
 そして、海に、人型をした灰色のものを投げ入れながら、そのぐるりを静かに回り始めたのである。それには、錫《すず》色の帆も砲門の緑も、まるで年老いて、冷たい眠りに入ったかのようであった。
 迷信深い魯西亜《オロシャ》の水兵どもは、綾《あや》に飛びちがう火光を外目にして、祈祷《きとう》歌を、平然と唱え続けているのだ――それは沈厳な、希臘《ギリシア》正教特有の、紛う方ない水葬儀だったのである。
 一つ二つ――そうして、甲板から投げ込まれる、灰色のものを、二十五まで数えたときだった。
 思わず慈悲太郎は、総身にすくみ上がるような戦慄《せんりつ》を覚えたのである。
 もしやしたら、この軍船は悪疫船《えやみぶね》ではないか……。
 しかし、そう気づいた時は、すでに遅かった。後檣《こうしょう》の三角帆から燃え上がった炎が、新しい風を巻き起こして、いまや岬の鼻を過ぎ、軍船は入江深くに進み行こうとしている。
 そして、最後に二十六番目の死体が――それも麻布にくるまれ、重錘《おもり》と経緯度板をつけたままの姿であるが――ドンブリと投げ込まれたとき、火気を呼んだ火縄函《みちびばこ》が、まるで花火のような炸裂《さくれつ》をした。かくして、その軍船は、全く戦闘力を失ってしまったのであるが、その時小舟の一つから、うめきとも驚きとも、なんとも名付けようのない叫び声があがった。
 というのは、一筋銀色の泡を引いて、水底から、不思議な魚族が浮かび上がってきたからである。
 はじめ、水面のはるか底に、ちらりと緑色のものが見えたかと思うと、その影は、すぐに身を返して、尾をパチパチとさせ、またも返して、激しいうねりを立てる。と、銀色をした腹の光が、パッとひらめいて、それが八方へ突き広がっていくのだった。
 そのうねりの影は、真っ白な空を映して無数に重なり合う、刃のように見えた。
 しかし、そうして一端は、遠い大きな、魚のように思えたけれど、ほどなく、渚近くに浮き
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