かへ消え去ってしまった。
彼女は、二つの世界の境界を、はっきりとまたぎ越えて、やがて訪れるであろう恋愛の世界に、身も世もなく酔い痴《し》れるのだった。
けれども、翌日から彼女を訪れるものは、やはり横蔵であって、慈悲太郎は、自分から近づくような気振りを見せなかった。それが、フローラの影法師を抱きしめて朦朧《もうろう》とした夢の中で楽しんでいるように見えたのである。
「のうフローラ、そなたとこうして、恋のはじめの手習いをするにつけて、つくづく近ごろは、沖に船が、通らねばよい――とのみ念ずるようになった。したがそなたは、儂《わし》の髪ばかりを梳《す》いていて、なぜにこちらを向いてくれぬのじゃ。察してくりゃれよ。日がなそなたの呼吸を、首ばかりでのう、嗅《か》いでおる儂をな」
と、横蔵が、恨みがましい言葉を口にしたように、何よりフローラは、彼の艶々《つやつや》しい髪の毛に魅せられてしまったのだ。
海気に焼け切った、横蔵の精悍《せいかん》そのもののような顔――鋭く切れ上がった眥《まなじり》、高く曲がった鼻、硬さを思わせる唇にもかかわらず、その髪は、豊かな大たぶさにも余り、それが解かれるとき、腕に絡んで眠る水精のように思われたのだった。
しかし、それには理由があって、以前大陸の東海岸に近いある町で、偶然フローラは、一枚の木版画で日本という国を知ったのであった。
それには、顔に檜扇《ひおうぎ》を当てた、一人の上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》が、丈なす髪を振り敷いて、几帳《きちょう》の奥にいる図が描かれてあって、それに感じた漠然《ばくぜん》としたあこがれが、いまも横蔵の、美しい髪を見るにつけ意識するともなく燃え上がったのであった。
「ホホホホ、お難《むず》かりもほどになさいませ。いま一の絃《いと》をしめて、私調子を合わせたばかりのところでございますわ」
と華奢《きゃしゃ》な指に、一筋髪を摘まんで、輪になったそれを解《ほぐ》しながら、
「ではいっそのこと、合わせ鏡をしたら……。それほど、私の顔を御覧になりたいのなら――、いかがでございますか」
と持ち添えた、二つの鏡をほどよく据えて、前方の一つ――なかに映った横蔵の顔を、じっとのぞき込んだときだった。
何を見たのかフローラは、アッと叫んで、取り落としてしまった。なぜなら、そこに映ったのが、銅々《あかあか》と光った、横蔵の半面と思いのほか、意外にも、奇怪を極めた絵となって飛びついてきたからだ。すでに、海底の藻屑《もくず》と消えたはずの父ステツレルの顔が、つぶれた左眼を暗くくぼませて、寒々とこちらを見返しているのだ。
その黄色い皮膚、薄汚い襞々《だんだら》は、まるで因果絵についた、折れ目のように薄気味悪く、フローラは全身の分泌物を絞り抜かれたような思いだった。それからフローラは、邪険に横蔵を追いやって、その折回廊を、慈悲太郎が通り過ごしたのも意識するではなく、ただただ父の名を呼び、いつまでも、しびれたように座っていた。
その一瞬の間に、彼女の眼は別人のように落ちくぼんでしまった。
鉄の輪が、いつもこめかみを締めつけているように感じ、舌は、熱病のような味覚を持っていた。しかし、そうしているうちに、ふと横蔵の迫り方を思うと、いつかチウメンで出会った、あの恐怖がしくしくと舞いもどってきた。
父の影を持つ男――それに、いつか身を任さねばならないとすれば、神かけても彼女は不倫から逃れねばならない。そう思うと、フローラはすっくと立ち上がって、一つの恐ろしい決意を胸に固めたのである――あのいとわしい幻影を殺すために、まったく不思議な心理、信ぜられない潔癖のために、彼女は、横蔵に生存を拒まねばならないのだ。
「のうフローラ、姉の才量で、今日から城内に、グレプニツキーを入れることにした。そして、黄金郷の在所《ありか》を、じわじわ吐かせることに決めたのじゃ」
と言った横蔵の唇が、いつになく物懶《ものう》げであったように、それから数日後になると、果たしてステツレルの出現と合わしたかのごとく、城内には、悪疫《えやみ》の芽が萌《も》えはじめてきた。
それは壁という壁から立ち上がる、妖気《ようき》でもあるかのように、最初横蔵に発して、さしも頑強《がんきょう》な彼も、日に日に衰えていった。錐《きり》のような髯《ひげ》が、両|頬《ほお》を包んで、灰色がかった皮膚から、一日増しに弾力が失われていくのだ。
したがって、フローラの決意も、やがて下ろうとする自然の触手を思うと、いつか鈍りがちになるのも無理ではなかった。
ところが、それから一月後のある朝、思いがけなく横蔵が、胸に短剣を突き立てられ、うねくる血に彩られた、無残な姿を発見された。
その日は、垂れこめた雲が、深く暗く、戸外は海霧《ガス》と波の無限の荒野であった。その夜慈悲太郎はフローラと紅琴を前にして、彼が耳にした、不思議な物音のことを語りはじめた。
「ちょうど、寅《とら》の刻の太鼓を聴いたとき、風にがたつく物の響き、兄の吐くうめきの声に入り交じって、それは、薄気味悪い物音を聴いたのじゃ。のう姉上、儂《わし》の室の扉《とびら》の前を離れて、コトリコトリと兄のいる、隣室に向かう足音があったのだ」
「いやいや、何かそちは、空想《そらごと》におびやかされているのであろうのう。気配とやらいうものは、もともと衣としか見えぬ、ちぎれ雲のようなものじゃ」
「ところが、それには歴然《れっき》とした、明証《あかし》がありおった……。通例《なみ》の歩き方で、二歩というところが一歩というぐあいで、その間隔《あいだ》が非常に遠いのじゃ、それで、なにか考えながら歩いておったと儂《わし》は推測したのだが……」
「おお、それでは……」
とフローラは、いきなり紅琴の腕をつかんで、けたたましく叫んだ。
「それでは、父の亡霊が歩んでいたとおっしゃるのですか。中風を患った父は、不自由なほうの足を内側から水平に回して、弧線を描きながら運ぶので、自然そんなぐあいに聞こえるのでございますよ。ああ、あの父が、チウメンで殺された、アレウート号といっしょに、沈んだはずだった父が……」
フローラは、心痛と恐怖のあまり、歯はがちがちと打ち合い、乾いた唇から、嗄《しゃが》れたうめき声を立て続けるのだった。
しかし、不倫の悪霊ステツレルは、どうしたことかそれなり姿を現わさなかったし、また横蔵の、下手人とおぼしいものも発見されなかった。
そうして、いつとなく思い出さえも薄らいでしまって、今ではフローラも、慈悲太郎の唇を、おのが間にはさむような間柄《なか》になった。
慈悲太郎は、兄とはちがって、白いふっくらとした肉で包まれ、むしろ、女性的に見えるのだが、その弾力、薄絹のような滑りに、フローラはじりじりと酔わされていった。
その日は、空が青い光を放ったように思われ、波濤《はとう》の頂きが、薔薇《ばら》色のうねりを立てていた。
「こうして、白い雪のようなお肌の上に、手を置いておりますと、私の手が、なんとなく汚らしく、それに、黄色く見えるようでございますわ。早く奥方様のお許しをうけて、あなた様のお肌をほんとうに、私のものとしたいくらいでございますのよ」
と悩まし気な、視線を彼に投げ、ほんのりと、紅味に染んだ見交わしの中で、その眼は、碧《あお》い炎となって燃え上がった。そして、片肌を脱がせ、紗《しゃ》の襦袢《じゅばん》口から差し入れた掌《て》を、やんわりと肩の上に置いたとき、その瞬間フローラは、ハッとなって眼をつむった。
彼女は、臆病《おくびょう》な獣物《けだもの》が、何ものかを避けるように飛びのいて、ふたたび、その忌まわしい場所に視線を向けようとはしなかったのである。
というのは彼女が手を引くと同時に、窓越しに差し出された、一つの、煙のような掌を見たからであった。
それは、おそらく現実の醜さとして、極端であろうと思われる――いわばちょうど、孫の手といったような、先がべたりと欠け落ちたステツレルのそれであったからだ。
その夜、徹宵《よっぴて》フローラは、壁に頭をもたせ、うずくまるようにして座っていた。
父ステツレルの怪異が――、あの妖怪《ようかい》的な夢幻的な出現が、時を同じゅうして、いつも、痴《し》れ果てたときの些中《さなか》に起こるのは、なぜであろうか。と、いくら考えつめていっても、同じような混沌《こんとん》状態と同じような物狂わしさは、いっかな果てしもなく、ただただ彼女だけが、その真っただ中に、取り残されているのを知るのみであった。
すると突然、ひゅうひゅうというすさまじい声が、空から聞こえてきた。
彼女の相手となる、男という男に、あの世から投げる父の嫉妬《しっと》が、あまねく影を映すとすればいつか彼女に黴《かび》が生え、青臭い棺《ひつぎ》に入れられても、その墓標には、恋の思い出一つ印されないに相違ない。もう一度、そうだ……。もし慈悲太郎に、横蔵と同じ運命をたどらせるとすれば、もはや男と呼ばれて、彼女をおびやかす、忌まわしい対象が、この島にいなくなるのだ。
と思いなしか、前よりもいっそう狂い募る、波の響き、風の音の中から、彼女にそう警告したものがあった。
しかし、ここに奇異《ふしぎ》というのは、間もなく横蔵の場合と、符合したかのように、慈悲太郎が悪疫にたおされてしまったからである。
そして、季節も秋近く、そろそろ流氷のとどろきがしげくなったころ――、その日は、暮れるとともに、恐ろしい夜となって展開した。
一刻一刻と風は高まり、海は白い泡《あわ》をかぶって、たてがみのような潮煙を立てた。その時、異様な予感にそそられて、フローラは頭をもたげ、部屋の濃い闇《やみ》の中をじっとのぞきはじめた。それは、嵐《あらし》の合間を縫って、どこからともなく響いてくる、漠然とした物音があったからだ。
そうして彼女は、その夜更けに、ふと慈悲太郎との部屋境にある、格ガラスを透かして、時折り青白いはためきをする、蝋燭《ろうそく》の炎を見つめているうちに、いきなり、激しい恐怖の情に圧倒されてしまった。
見ると、扉がいつの間に開かれたのであろうか、荒れ狂う大風に伴った雨の流れが、その格ガラスの上に、ドッと吹きつけたのである。と思うと、瞬間おどろと鳴り渡った響きの中から、見るも透《す》んだ蒼白《あおじろ》い腕が――しかも、指のひしゃげつぶれた、反り腕の父のそれが――フローラの眼をかすめて、スウッと横切ったのであった。
黄金郷《エルドラドー》の秘密
翌朝になると、果たして慈悲太郎は冷たい亡骸《なきがら》と変わり、胸には、横蔵と異ならない位置に、短剣が突き刺さっていた。
その日の午後、フローラは、しょんぼり岬《みさき》の鼻に立っていて、いまにも氷の下に包まれるであろう、死者のことを思いやっていた。それは、村々の外れに淋《さび》しく固まっている共同墓地の風景であった。
しかも、その時ほど、自分の宿命と、罪業《ざいごう》の恐ろしさを、しみじみ感じたことはなかったのである。彼女は、靄《もや》の中に隠されている、ある一つの、不思議な執拗《しつよう》な手に捕らえられているのだ。その明証《あかし》こそ昨夜まざまざと瞳《ひとみ》に映った、父の腕ではないか。
そして、最初横蔵の鏡に映った片眼が、もしそうであるにしても――と、フローラは不思議な自問自答をはじめた。
というのは、はしなくその時の鏡が、古びた錫《すず》鏡だったのに気がついたからである。
元来錫鏡というのは、ガラスの上に錫を張って、その上に流した水銀を圧搾するのであるから、したがって鏡面の反射が完全ではなく、わけても時代を経たものとなると、それは全く薄暗いのである。すると、横蔵の背後に置いた一つが問題になってきて、もし、その角度が、光線と平行な場合には、当然水銀が黝《くろず》んで見えるはずであるから、正面に映った横蔵の眼に、暗くくぼんだような黝みが映らぬとも限らないのである。
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