か。
すると、再びあの苦悩が、しんしんと舞いもどってきて、彼女は、深い畏怖《おそれ》に打たれた声で叫んだ。
こうして、尽きせぬ名残りと殺害者の謎《なぞ》――またフローラにとると、父ステツレルの妖怪《ようかい》的な出現に疑惑を残し、この片々たる小船が流氷の中を縫い進むことになった。
「まいりますとも、まいりますとも……。奥方さまのおいでになるところなり、どこへなりとお供いたしますわ。そして、私は父の亡霊を見にいくのでございます。それは、ほんとうの父ではございません――父の幽霊でございましょう」
それから、十数日の間というのは、まるで無限に引かれた灰色の幕の中を進んでいくようであった。
時として、低い雲が土手のように並んでいると、それが島影ではないかと思い、はっと心を躍らせるのであるが、その雲はすぐ海霧《ガス》に閉ざされて、海も空も、夢の中の光のようにぼんやりとしてしまうのだった。
そうして、死んだような鉛色の空の下で、流氷の間を縫い行くうちに、ある朝、層雲の間から、不思議なものが姿を現わした。
その暗灰色をした、穂槍《ほやり》のような突角が、ベーリング島の南端、マナチノ岬であ
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