きは、葉末の露に、顔を映せば消えることです。独り胸を痛めて、私は、ほんとうに哀《いと》おしゅう思いまする。すでにそもじは、十字架に上りやったこととて、基督《ハリストス》とても、そもじの罪障《とが》を責めることはできませぬぞ」
 そういわれたとき、フローラは、眼前にこの世ならぬ奇跡が現われたのを知った。
 眼が薄闇《うすやみ》に馴《な》れるにつれて彼女の眼は、ある一点に落ちて、動かなくなってしまった。
 それは、葉末の露に映った、自分の頭上に、見るも燦然《さんぜん》たる後光が照り輝いていて、またその光は、首から肩にかけた、一寸ばかりの空間を、透《す》んだ蒼白《あおじろ》い、清冽《せいれつ》な輝きで覆うているのだ。
 とめどなく、重たい涙が両|頬《ほお》を伝わり落ちて、歓喜のすすり泣きが、彼女の胸を深く、波打たせた。
 が、そのとき、紅琴の凛然《りんぜん》たる声を背後に聞いたのだった。
「だが、そもじの罪障は消えたとて、二人を殺《あや》めた下郎の業《ごう》は永劫《えいごう》じゃ、私は、今日これから、そなたの前で、そやつを訊《ただ》し上げてみせますぞ」
 それから、小半刻《こはんとき》ばかりたったのちに、一人の背の高い男が、浜辺に集《つど》った土民たちの中で、身を震わせていた。
 海霧《ガス》が、キラキラ光る雫《しずく》となって、焼けた皮膚や、髯《ひげ》の上に並んでいくが その男はただ止まろうとせず、それが失神したようになって、おののいているのだ。
 紅琴は、その男をにくにくし気に見すえて、言った。
「どうじゃグレプニツキー。いまこそ、妾《わらわ》の憎しみを知ったであろうのう。そもじを十字架《クルス》に付ければとて、罪は贖《あがな》えぬほどに底深いのじゃ。横蔵を害《あや》め、慈悲太郎を殺したそもじの罪は、いまここで、妾《わらわ》が贖ってとらせるぞ。よもや、慈悲太郎が聴いた、足音の明証《あかし》を忘れはすまいな。だれか、早う、この者の靴《くつ》を脱がすのじゃ」
 凛《りん》とした声に、躍りかかった四、五人の者が、長靴を外すと、そのとたん、フローラは激しい動悸《どうき》を感じた。
 見ると、グレプニツキーの右足は、凍傷のため、膝《ひざ》から下を切断されていて、当て木の先には、大きく布片が結び付けてある。
 しかし、事態を悟ったグレプニツキーは、意外にも、安堵《あんど》したよう
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